多くの場合村の山は、その村落の背後(背戸)にあり、南から北に流れる伊南川に沿ったこの地域では山域は村の東と西に広がるが、山口村に関してはそれが当てはまらない。
背戸の駒止峠に向かう東側はすぐに中小屋(もとは山口の端村と伝わる)の山となり、その山域のほとんどは北にある端村の板橋と臺(台)と北原の背後(東)にある。『山の散歩道』の現在の山口の山域はわずかで、地図上部(北)の広大な山域は現在の台・板橋になっている。街道交通と輸送によって山口村の生業と山との関りが比較的早くから薄れていることを示しているようにも思える。前記事に登場した愛宕様も町屋沢の北側崖上にあり山口村を一望できるが、字は「板橋山」となっている。
『山の散歩道』には山口の山の地名が22ヶ所拾われているのに対して台・板橋は106ヶ所と多い。南北に長大で集落間が間延びしている山口村では、本村と端村の生業が早くから違っていたのではないかと、山の地名の残り方からは推定できる。前記事「南郷に見る『古事記』の世界」
などでは生活用材や地勢を取り上げたので、それ以外の地名を拾いながら、昔の暮らしの断片を考えてみる。
一枚田 「地蔵沢滝の下のところに唯一枚、一畝足らずの田があるところよりいう。」
百枚田 「蓑の下に一枚・笠の下に一枚というように小さい田が百枚あったという。」(『山の散歩道』の解説より抜粋)
一見、百枚田はさぞかし豊かな土地かと思いきや、「蓑の下・笠の下に一枚」は誇張だとしてもすごい命名だ。前者は現在形(平成六年出版の調査時点)、後者は昭和四十五年頃に耕作停止。どちらの地名も最近までの村民の水田に対する思いを伝えている。
昭和十(1935)年生まれの父の世代は、昨日まで皇国少年になることを礼賛した教師が、今日にはその教科書を墨で塗りつぶすよう命じた現場に居合わせた世代だが、そこから立ち上がってからの、高度成長期の稲作に対する社会的価値の転換もまた、農民にとっては同様の衝撃だったろう。重なる減反政策の結果花を作ることを選んだ父が、何かの折に「作れるもんだら稲を作りてえ」と言ったことがあり、その時の憧憬のような哀愁のような言葉のトーンや表情が印象深く残っている。
法度木(複数あり) 公儀による御用木や境界を示す名詞がもと?で地名化した。民地では境木と呼んで伐採してはならない木で、山仕事の折に通りかかると鉈で刻み傷をつけて目印にした。他に十文字も境界を示した地名。水源となる清水をどちらへ引くかなどで争いのあったことが近世の記録にある。(多分それ以前から争っている)
馬乗婆 山上の平地で、そこに入って開拓した名主の妻女が農馬に乗って里へ出たりしたという伝承があるが、和泉田に馬場河原があり、通称バンバガーラという。漢字表記は異なるがバンバが同音なことから、本来は婆が馬場だったことも考えられる。和泉田には中世に河原崎城があり、武士がここで乗馬の訓練や馬の手入れをしたと伝わる。
タユウザー 太夫沢と表記し「昔、大夫様の屋敷があったと伝説がある。」と解説されるが「太夫」がどのような人かわからない。五位以上の官人(貴族)ということらしいが、地方官以外にも巫女や白拍子や遊女や芸人にも太夫と呼ばれる人はいたので、位階の正確さはさておき、ここに地名と伝承を残す太夫とはどのような人物だったのだろうか。これには後述する鉱物資源の件が関係するかもしれないが、それに関する伝承などは伝わっていない。かなり麓に近い地点でもあり、岩窟を呼ぶユウ(幽)のような地形は無いようだし、タユウと訛るような言葉は今のところ思い出せない。
台の東に垂直の断崖の黒岩山(1130m)がある。黒岩山北端に行人岩という場所があり洞穴があって「行人の泊り場だった」と伝わる。一本歯の下駄をはいた山伏の話などの断片的な伝承はあるが、具体的な行人(修験・山伏)に関する伝承は見つけられない。黒岩山の麓の大石沢には経塚があり、「五十坪位の高さ七メートル程の擂鉢を伏せたような草も木も生えていない小山があった。この山は小さな岩の片の固まりの山であった。御経千巻、黄金千枚、炭千俵、荒鍬千枚を埋めて柱状の岩片で屋根をしたものであり、この岩片を持ち去るとタタリがあると伝えられている。」という朝日長者伝説が伝わっていて、近代より前に採鉱民がいたらしき形跡はある。
経塚本体は、「昭和十八年住友鉱山開始時、道路開削のため経塚移転の儀を祀り、取り崩しが行われた。」現在も道脇にはその痕跡が見られる。その住友鉱山(山口鉱山・大宮鉱山)の選鉱場がまさに経塚の山側にあった。もしかすると岩片でできた草木の生えない小山という経塚が、もっと古い時代のボタ山(掘削時のガラ)だったのではと想像をたくましくする。黒岩山の下には私の興味を引く地名が点在している。これも『山の散歩道』という優れた資料に恵まれたことによる。
スリハチクボ 「黒岩の屏風のような岩山の下は泥沼の山であり(中略)雪解時に、スリ鉢久保は溜池のように水が溜まり、この水が滝沢の滝の100メートル程離れた山肢から滝のように落ちている。」
タキノサー 「滝の沢は大石沢の水源をなす本流である。滝の沢の滝は岩場を50メートル位直下に流れ落ち、四月、五月の雪解水は多量である。」
コブノウチ 「滝の沢の入り口から右に分かれて入る沢で(後略)」
カジバタ 地図ではコブノウチから少し下った傾斜の緩い場所だが解説欄は空白。このあたりのハタ地名から類推すればカジは人名、カンジやカンザエモンで、出作り小屋によって開かれた畑だろうと思われるが、後述する採鉱関連を匂わせる地名との繋がりも皆無ではない。その場合は鍛冶畑の意味となる。
黒岩山を垂直に落下する滝がスリハチクボに溜池をこしらえ、さらに滝になってスリハチクボから落ちて滝の沢(滝沢とも)になる。その分流にコブノウチがある。解説は地図的な説明だけしか述べていないが、「コブ(こふ)」は白鳥などの大型の白い鳥をいう名詞でもある。以前、鹿沼市の古峰ヶ原や舘岩村の古布沢、古布金山、昆布沢などが、かつて高層池沼を作っていて渡り鳥が飛来していたのではないかと考えたものと通じる。(前記事「8、祭神と伝承 その三(古布)」参照)
さらに台地状になった黒岩山の背後に鹿水川の源流があり、昭和村の方へ北流した後西へ向きを変え界村へ流れていく。鹿水川をカナミズガワと呼ぶことは、恥ずかしながら南郷村に住んでいた時代には知らなかった。川の名は通常上流部の地名であることから、カナミズという源流を黒岩山の東側に持つこの川の名も採鉱と無関係とは言い切れない。
妄想は、鉄分を含んだ水が高原の池沼に高師小僧と呼ばれる褐鉄鉱を作り、歩留まりの良くないものの、鉄資源として使われたという方へ進む。湖沼に生成することから白鳥を追うことが褐鉄鉱の産地を見出すことに通じた時代があり、それは鉄の利器が貴重品だった時代に属する。次の時代には修験者や杣人がさらに上流にある露頭や鉱脈を発見してその情報と採鉱地を守っていたという構成になる。
当然彼らは権力者との繋がりは強く、いろいろな特権も得やすい。修験の開祖である役行者が、度々捕らえられてもそれをかいくぐって活躍する伝説は、その力と立場が反映された伝説と見ることもできる。さらに次の時代には真言密教に代表される、当時の最高学府を形作る学僧とその育成環境を維持するために欠かせない情報網でもあった。彼ら(修験者)がその情報を豪族や大名に知らせて見返りを得ていただろうことは窪田蔵郎も著書『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)の中で述べている。また同書中には「修験道自身、鉱山師の集団であった要素が強い」とも述べる。
荒(麤)・鹿・蟹などの地名は鉱物情報を表す符丁だった可能性も考えられる。(前記事「荒さがし」
など参照)
その符丁でいうならタケミカヅチ(またの名をタケフツ・トヨフツ)という鋭利な剣の神を祭神とする常陸の国一の宮の鹿島神宮は鉄剣の神宮であり、フツヌシ(神武を助けた霊剣)を祀る下総の国一の宮の香取神宮(鹿取)とともに全国を平定して回ったことも頷ける。土浦市あたりには鬼鉄と呼ばれる褐鉄鉱があり、鹿島の古代製鉄の原料とも言われたらしいが、窪田蔵郎はその質が精錬に耐え得るものではないと言っている(『鉄の考古学』雄山閣出版)。刀剣を作る鋼を念頭にしているのかとも思うが、本体と柄が木製の鍬の刃など、農耕具や生活の道具にはどうだったろうか。近年高師小僧による刀子の製作に成功した実験結果もあり、歩留まり(経営)を度外視するなら不可能ではないことは証明されている。
台の高台から南へそのまま水平に山を回っていく古い道のはずれには、集落の古い墓地(新墓地は下にもある)と石神様が祀られている。現在は覆屋が無くなったが6m四方の覆屋(堂)内の本殿に梵字の刻まれた御神体が納められていた。若者は湯殿山にお参りする際にはこのお堂で潔斎の日々を過ごした。由緒は不明だが台の集落から鉱山のある山に向かう入口にあたり、堂内にあって梵字が刻まれていることからは、通常の道祖神とは違うように思える。時代がわからないが鉱山神である可能性もある。しかし古代社会の最底辺で活動していただろう人々の生活風景は容易には再現できない。
「山抜けで台へ移転したか」と伝わる北原には鹿島大明神が祀られていて、鹿島下の地名が残り、そこにあっただろう鹿島大明神は現在台・板橋の鎮守である若宮八幡宮に合祀されている。この鹿島大明神が虻の宮にある伊北郷一の宮鹿島大明神の勧請されたものかどうかはわからないが、もしそうであれば中世以来伊南郷だった北原に伊北郷の一の宮が祀られていることになる。大橋村、山口村には田島、舘岩にも見られる二荒山神社があることは、長沼氏、河原田氏の統治下では頷けるが、中世山内氏領の伊北郷の一の宮が勧請されているとするなら、中世以前の勢力圏はまた違った解釈を必要とするかもしれない。この地域は伊北、伊南の勢力圏がもみ合う所なので、川を挟んだ東西とあわせて南郷村を四分割していて、ややこしいことが起きてくる。
鹿島大明神が合祀された鎮守の若宮八幡宮は、前に触れた(「ぁ・天孫ぷりーず」参照)「延宝三年」からの名称で、それ以前はわからないとされているが、鎮座地の字が山神堂であることから、本来は山神を祀っていたものと思われることは述べた。
台と板橋は大石沢が境界と思われるにもかかわらず、この宮は微妙な位置にある。多くの鎮守は集落の背後から集落が見渡せるような位置であることが多いが、ここは台の南端から大石沢を渡り、急な段丘を登った板橋側の場所にあり、板橋からは段丘上に道があったものだろう。しかし台の集落からも板橋の集落からも神社は見えず、当然神社からも集落は見えない。ほぼ西の伊南川に臨んでいる。神社というより寺の立地にふさわしい。
さらに台の集落には、はずれに前述の石神様があり、そこを通って大石沢に沿って山を回り込むと、経塚の手前に山の神の鳥居と祠がある。刈敷(春に水田に敷き込む柴)の山の口(公平を期して集合して刈敷をとる行事)が行われた牧場になる。台の山の神としてはふさわしい場所だと思われるが、では現在の鎮守のある山神堂とはどこの山の神かという問いが出てくる。寛文五年の集落は、台・五軒、板橋・六軒、北原・三軒という規模の端村なので、現在の住居地の場所からは想像しがたいが、小さい祠に祀られた山の神をそれぞれの地区が持っていたと考えるのが普通だろう。この鎮守の立地と集落規模からすると立派すぎる参道の造りなどの経緯には何か理由がありそうに思う。近代の鉱山開発に伴うのかも知れないが、今のところ確認できない。それらも今は草木が繁り積み石が緩んでさびれている。(ひとまず山口終わり)







