宮床の村名は、高倉宮以仁王がこの地で床に伏した伝説からつけられたと伝わる。「はじめ稲葉村と言ったがひどくお疲れになられてしばし休まれた云々」と伝わる。稲葉村の人々は宮が床に就かれたので稲葉村を宮床村に改めた。これは、木伏の地名由来譚と同じ風土記的、付会的な地名説話であり、私はこの説を取らない。昔の生活の跡を残す地名が、宮伝承に覆われることにより無条件で「郷土の誇り」になるのは「誇り」の意味が違う気がするからだ。宮の苦難の旅をねぎらった村のホスピタリティは愛すべきものとして、地名考証は別に進めたい。
宮床の立地は、『新編会津風土記』では古町組上十箇村の北端で、川向こうの鴇巣は古町組下十三箇村の北端となっている。東西は川によって分断され、南北は中世河原田氏(伊南郷)と山内氏(伊北郷)の勢力境界で分断されていた。南郷村を四分割する東西南北の十文字の交点にあるのが宮床と鴇巣(伊南郷)、和泉田と界(伊北郷)で、地名や信仰にもそれは現れているだろう。伊南川西岸の大橋、鴇巣の考察を後回にしているのは、伊南川西岸に伊南郷と伊北郷を貫通する街道の存在が気になるからで、山内氏領からの影響については何も知らず、考察が見当違いな方向に向かう危険性が高いためで(もう手遅れかもしれないが)・・・などと言い訳をしつつ、文献が少ない中世より前の時代を覗けるものかどうか、地名や伝承を眺めていくことにしよう。
宮床:右手が上流(南)突き出ているのが愛宕山、北は画像が切れている(『山の散歩道』より)
宮床の南端は愛宕山のヘツリで北原(山口村の端村)と接し、北端はホイトウ岩のヘツリで界村と接している。南北にヘツリがあるため山際は浸食から守られ、平坦な氾濫原となっている。それと同時に川水は滞留しやすく、沼や湿地のできやすい地勢だった。オオヅボ、ナガヅボ、カワクボなどの地名にそれが残されている。
『新編会津風土記』には村の南端の愛宕神社からの眺望を「此の地眺望やや廣く西北の麓に和泉田組の諸村碁布し桧枝岐川の長流あり、最勝愛すべし」と称えている。宮床、鴇巣あたりから氾濫原は広く平坦になり、現在の国道はその氾濫原の中央を南北に抜け、国道の両側は段丘下から伊南川の堤防まで一面に農地と宅地が広がっている。東側の山裾の河岸段丘上に上州街道が張り付くように通っている。この道は愛宕山の裏側を通って北原へと通じ、村外れとなる峠の登り口には不動堂がある。
村の発達した河岸段丘から旧河床までの、比高10m前後の急斜面はキュウデイママと名付けられ、古い集落はママの上に集まっていた。ママは群馬県の大間々町などと同じく、急傾斜地の地名だが、宮床では自然堤防でもある。『里の散歩道』解説に、キュウデイに「急泥」があててある。「ママ」が急傾斜地なのにわざわざ音読みの「急」をあてるのには疑問がある。デイはダイ(大、台)の転訛もあり、キュウにも何か別の解読があることと思うが、まだわからない。北の境にあるホームレスが雨露をしのいだことから呼ばれたホイト岩。「ホイトウ(ホイト)」は物乞いを表す方言とされるが、もとは門付けが祝詞でその家を言祝ぐ祝人ではないかと思っている。ホギ歌が門付けの芸になり、物乞い人のことをあらわすようになったのだろう。ホイトウ岩、ホイトウ清水の解説には「銅の採掘をしたと伝えられる洞穴が沢山ある岩山、通称ホイト岩への国道からの上り口あった清水である。」(『ふるさと南郷・里の散歩道』)
『ふるさと南郷・山の散歩道』ではホイトイワに「法衣人岩」となっていて、六畳ほどの岩穴に泊まっていた乞食の目撃談があり、夜に火を焚いているのが見えると「今夜もお客があるぞ」と話したものだそうだ。やや後世の宛て字にも思えるが、この法衣人もありそうな気もするので一説としてあげておく。
ミヤドコまたはミヤトコの音から考えると舘岩の地名でみた「処」であり(「ド、ド、ド、ド、ドウ」参照)、森戸や伊与戸と同様、宮処の好字化だろうかと見当をつけて、宮床村の宮と呼ばれた祠や神社を資料から拾ってみる。
①まず鎮守の稲荷神社の由緒、「馬場兵庫頭綱重後越中守と号し宮床村、北原、台、板橋村の領主となった。越中守は足利十二代義晴将軍の大永二(1522)壬午年下野国民家没落後流人となりて釜ヶ淵に祭礼されている田舎不動尊と田沼の稲荷様を奉じて宮床に来り鎮守として祀った。」(『南郷村郷土誌資料5.農山村における信仰・二』)
②次に同資料の著者である安藤紫香氏によって「氏神より小社になった神社」という項にまとめられている、集落が大きくなって村落となる前に祀られた神社として宮床には八竜神をあげている。祭神の高竜神とは高龗神と同じタカオカミ神だろう(「いなくなった火の神」参照)。そうであれば木伏の於加美神社、片貝の於加美神社と同じ神を祀っていた人々かとも推測される。高龗神と共に祀られることが多い雷電社の小祠も同所にある。
「昔安照寺の倉の北側に三軒の家があり下宮床村と称してお寺の上り口南に墓もある。その後いつの時代にか今の宮床に家は引越したが、この人たちの産土神である。馬場越中守が田沼から永正十酉(1513)年宮床に流居した時より氏神として稲荷様を祀ったもので、鎮守は稲荷であるが、祭りの旗は今でも、稲荷大明神と八竜神の旗を建てるならわしになっている。」(『南郷村郷土誌資料6.農山村における信仰・三』)
鎮守の稲荷神由緒では大永二(1522)年とされる馬場越中守のことが、八竜神社伝では永正十(1513)年になっているが、流居した時から勢力を安定させた時期のどこを取るかにもよるので、この九年間は伝承のもたらすズレとして、おおよそ戦国時代の渦中のことと理解しよう。
③宮床の南のヘツリは愛宕山で、ヘツリの山上に愛宕神社が祀られている。村境に愛宕社が鎮座する例は多いが、愛宕神社が流行するのは家康が江戸に京都の愛宕社を勧請してからかと思われ、寛文(1661~)に記録された地名への影響は少ないと考えるので、論旨が煩雑になるのを避けることもあって取り上げない(すでに十分煩雑)。むしろ愛宕山と言われる前の呼称が知りたい。
安藤氏の解説や、『新編会津風土記』の記事、『里の散歩道』のホイトウ岩の解説などから、宮床北端にある安照寺のあたりにあった下宮床と、そこで祀られた八竜神が初期宮床の氏神だったのだろう。安照寺の南脇に寺沢があり、そのすぐ南に別当沢、稲荷林、宮ノ前、宮ノ下手があり、この地名に残る「宮」はやってきた稲荷神の「宮」を指しているのだろう。八竜神の古い石祠の宮の造立年は不明だが、稲荷神が八竜神を飲み込んでいるように見える。しかし一方で「鎮守は稲荷であるが、祭りの旗は今でも、稲荷大明神と八竜神の旗を建てるならわしになっている。」という②の記事は、東の柄倉神社の祭りに、古い在地神と思われる三倉神社ののぼり旗を建てたり、山口熊野神社が明治政府の廃仏政策に応じて、神仏習合時代の本尊を「宝物」として残したりする、新しい体制の中に、古い信仰を残していこうとするしたたかさでもあるだろう。(「唐・穀・柄倉山・(木伏・入小屋)」)(「ぁ・天孫プリーズ?」)
装幀も独特な扉
この中で宮床に関して必要なのは「ナ」という一音の単語、または「イナ」という単語に関することだ。①に引用した稲荷神社由緒で宮床村の祖ともされる馬場越中守が、下野国釜ヶ淵から奉じてきた「田舎不動尊」のイナカとは何だろう?またそれは稲荷神にも言えることなのだが、この脇道は馬場越中守の本貫の地(おそらく)、下野国(栃木)に通じているようだ。馬場越中守綱茂(重とも)の綱の字は下野宇都宮氏の代々使う通字(名の一文字を受け継ぐ)で、奉じてきた田沼の稲荷神は佐野市田沼で、群馬県足利市に隣接する日光山地の麓、釜ヶ淵の不動尊は、化け地蔵の伝説がある日光市の憾満ヶ淵(含満とも)か、または宇都宮氏が下野に定着したと伝わるさくら市氏家勝山(宇都宮市の北隣)の釜ヶ淵か、鹿沼市(宇都宮市の西隣)の古峯神社は天狗の宮で不動尊との縁が深く、宮床の稲荷神社の鎮座地が字別当沢で、長く二荒山神社の別当家であった宇都宮氏の姿を彷彿させることなどの薄弱な根拠ではあるが、私は前者の憾満ヶ淵を推したい。
『古事記』の国生み神話で、伊弉諾尊と伊弉冉尊が諸々の天津神から、「是のただよへる国を<修理固成>」の命を受ける場面を現代語訳(角川文庫)は「修理め固め成せ」としている。この「成せ」のナが、砂鉄を意味するスクナヒコナのナ、オオクニヌシの又の名であるオオナムチのナ、スサノヲが出雲の肥河上鳥髪の地で出会うアシナヅチ、テナヅチと娘のクシナダヒメのナ、またそれが砂のナと同じだと言ったら、この人大丈夫?と心配されるだろうか、結論からいえば、越中守が奉じた田舎不動尊と稲荷神はこのナ・イナによって同じ属性の神を意味していると思われる。さらに宮床へ改名する前の稲葉村のイナも同じだと言えば、この人終わってる!と断定されるかもしれない。とても回りくどくなって恐縮なのだが、『風土記世界と鉄王神話』のことを長々と紹介しなくては話が進まない理由は、吉野氏が「ナ」を「土」と解し、「イナ」を「鋳土」と解していることを伝える必要があるからだった。このことは広範な稲荷信仰だけでなく、自動的に「伊南郷」にも適用されてしまうので、正直なところ私には荷が重い・・・(宮床2へつづく)

