宮床に稲荷神と田舎不動尊をもたらしたとされる、馬場越中守綱茂が何者なのかは、本職の歴史研究者にお願いするしかないこととして、ここでは彼がもたらした田舎不動尊(この表記は『南郷村郷土誌資料』に一度でてくるだけのもので、他で確認していないがイナカと読む前提で進める)と稲荷神を考える。ただ、その前に宮床村の改称前には「稲葉村」だったという伝承について触れたい。「稲葉」というような詩的な言葉は地名では要注意でもある。イナバの地名は中小屋と和泉田に「稲場」があり片貝に「稲場下」の地名が残る。刈り取った稲を干す所をいう地名のようだ。地名に残っていなくても、村のあちこちに稲場はあったと思われる。イナバはそのような場所なわけで、それを村の名に採用するだろうかという疑問はある。
村名とするにあたって、生活上不可欠な場所だろう「稲場」の表記をあえて避け、詩的な表現の「稲葉」にしたのだろうか?あり得なくはないだろうが、常民的生活感が薄く他の稲場と紛らわしいのが釈然としない。日常で「イナバムラ」と発音しなくては「稲場」との区別ができない。「イナバニイッテクル」では用が足りず忖度が必要になる。
『里の散歩道』の解説によると、三か所の稲場の地名由来は、私が見慣れているこの地域で行われたハデ(稲架の当地方言)ではなく、稲を地面に直において干した(地干し)時代についた地名のようで、もっとも原始的な乾燥方法のように思えるので、始まったのがいつ頃かさだかでないが、稲作と同じぐらい前からだろう。資材の調達や保管などの点から考えると近代まではそうだったかもしれない。
稲は刈り取って二掴みほど毎に数本の藁で一把に結束し、12把をマァシ(廻し=藁を結んで作る紐)で一束に結束した。稲束は周辺の田から運び集めてハデに架ける。当地のハデは耕地の狭さからか、短い期間に乾燥の効率を上げるためか二階建て住宅足場のようなもので、上四段は梯をかけて投げ手と架け手の二人一組で進める。細木(ハデ専用に作った皮むき杉丸太)とコノメ棹(語源不明)で、田の長手(長辺)いっぱいに建設(笑)された、長さ約20~30メートル、高さ約6メートル、8~10段のハデに緑と金色の稲穂が架けられて巨大な壁になっている光景は壮観で、濃密な稲の匂いとともに子供にも誇らしかった。
見事な十段のハデ(『南郷村史』民俗編より)
稲場村のことはこれくらいにして、稲荷神と宮床村地名の関係について考えてみよう。馬場越中守が宮床に来たとされている大永・永正は16世紀の初頭で、「足利十二代義晴将軍の大永二(1522)壬午年下野国民家没落後流人となり」(おそらく「民家」は「主家」の誤り)という社会状況は数多くあったようで、間もなく時代は戦国となる。「田沼の稲荷」は佐野市田沼町の一瓶塚稲荷神社のようだ。「田沼の市街地は、一瓶塚稲荷神社の門前町として、また、野上や飛駒の沢からの諸産物の集積地として栄えた。」、「藤原秀郷が鎌倉松岡稲荷を勧請と伝わる。」(『角川日本地名大辞典』・栃木県)ここに出てくる松岡稲荷は鶴岡八幡宮に祀られている丸山稲荷(本殿重文)が、もとは松ヶ丘大明神・松岡稲荷と称していたもので、鶴岡八幡宮よりも古く、地主稲荷とも呼ばれている。鶴岡八幡宮の大家さんの稲荷神だ。江戸時代ではあるが、一瓶塚稲荷神社には銅製の鳥居が奉納されている。
「(稲荷の)その起源は『山城国風土記』をはじめとして(中略)和銅四年(711)二月初午の日に伊呂具秦公が、伊奈利山の三峰に三柱をまつったのに始まっている。」(『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎・講談社学術文庫)
「イナリ、イネナリなどの発音から五穀の神と考えられていたが、いつごろからか祭神倉稲魂命を売買にもじって商業の神としてしまった。」(同前掲書)
この和銅の元号は秩父の和銅遺跡から自然銅が産出したことからついた元号でもあることを付け加えておく。稲荷については前回の記事で紹介した吉野裕も、さらに詳しく『山城国風土記』の内容を書いている。長くて恐縮ですが説明できないので引用。
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「風土記に曰く、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸が遠祖の伊侶具の秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて、飛び翔りて山の峯に居り。伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」
これは卜部兼俱の『神名帳頭注』に引かれた『山城国風土記』逸文である。<稲荷社縁起>または<餅の的>伝説として古くから知られたものだが、いうまでもなく私がここで注意するのは「伊禰奈利生ひき」という文句が一字一音でかきわけられていることであった。
(中略)
この「イネナリヲヒキ」という一見陳腐にみえる文句で表現されているものの実質的内容は、製鉄業者にとってはもっとも待ちこがれていた決定的瞬間、すなわち砂鉄が溶融してどろどろの湯となって鋳鉄が形成されることを意味したものであり、いわばこれはそうした過程を表現する<聖なる詞章>として、彼らが産鉄族である限りは忘れてはならない言葉なのであった。
つまり稲荷社とは、いわば<イネナリ>稼業に従事する集団を統率する司祭者的指導者によって、製鉄上の聖地としてのイナリ山が尊崇されたところに成立した神社であり、要するに鉄霊降臨の聖地としてイネナリ祭儀が行われた祭場だったとも言えよう。(『風土記世界と鉄王神話』)
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この「聖なる詞章」の「伊禰奈利生ひき」を「鋳泥(土)化成り生いき」として成立させるために、風土記の「語りごと」的詞章にみられる象徴、比喩、誇張の表現を多く引き、いくつかの定型を導き出して、それらが産鉄民の持ち運んだ神の物語であることを論証している(しようとしている)。和銅四年の伊奈利山祭祀が「産鉄族の司祭者的指導者」=「伊侶俱の秦公」によって行われていたなら、秩父での銅山発見との関係があるように考えられる。
また、田沼に稲荷神を勧請したという藤原秀郷は、上州赤城山の神である大ムカデを退治する伝説の英雄だが、ムカデは銅鉱脈の異称でもある。和銅遺跡にある秩父聖神社には、銅の発見を賞して天皇から下賜された、非常に精巧な銅製のムカデが現存する。「田沼の稲荷」にはそのような採鉱キーワードが畳み込まれている。
(聖神社・秩父市和銅保勝会のサイトから)
「倭国で鉄の生産が知られた時点で<鋳土(鋳泥)>という言葉が成立し、それと対照される語として<鍛土(鍛泥)>があり得たのではないか。」(『風土記世界と鉄王神話』)
「日本ではナ・ニ(丹)・ヌ(意味不明だが瓊とされる)・ネ(泥・根とされる)・ノ(野)などこの語音は一族となって地質関係語に多く見られるようであり、イナ(イニ・イネ)を鋳造の材料となる土質のものをいったらしく思われる。」(同前掲書)などの指摘は実におもしろい。
吉野はこうも書く。「古くから有名な稲荷神社は古代の産鉄族居住地に栄えたようであり、しばしば稲荷塚とか稲荷山と呼ばれる古墳があることは興味を引く。」たしかに銘文が刻字された鉄剣で有名な、埼玉県行田市の稲荷山古墳もあるし、検索するといくつもある。なにより宮床に運ばれた田沼の一瓶塚稲荷神社からも埴輪が出土して古墳であることがわかっている。
神の属性が、時代の変化とともに本来とは違った、祀る側の願いに応じる属性になっていくことはたびたび触れてきたが、文字のない時代に、自分たちの出自を伝え続けるために、記憶されるに足るエンタテインメントとして語られてきたものが、風土記に残された「原神話」ともいえることをこの本は教えてくれる。到達点はまるで違っておこがましいとは思うのだが、西会津に残る「仙石太郎伝承」が、鉱物埋蔵地の地名を、郷土開発の神である善波命の英雄譚に織り込んで現代にまで残したことを見出した、前記事『伊佐須美神遷座と仙石太郎伝承の意味』には、そのような語り事的な要素が重なっていたように思う。それが西会津で行われていたのなら、神話的語り物という意味では、南会津や他の地域でも同様のことがあっても不思議はない。馬場越中守綱茂伝承はその一つではないだろうか。
ここまで進めて来て、脇へよけて置いたはずの高倉宮以仁王の伝説も、まさに同類かもしれないと思いついた。下郷町大字大内の高倉神社は以仁王を祀るが、「だれの古墳か詳らかでないが、長160・幅30・高8メートルの前方後円墳型の古墳」(『会津における高倉宮以仁王』安藤紫香著・下線部引用者)の上にある。
また、同町大内のもと山本村にある高倉観音(会津三十三観音の二十三番)は、大字大八郷にあったものを元禄時代に山本村に移したと伝わり、「高倉山はもと丸山といい、高倉観音を祀ってから、高倉山と呼ぶようになり、また別名を稲見丘ともいわれてきた。」(同前掲書・下線部引用者)
大型前方後円墳、イネ、貴種流離の伝説、今はまだ、確かめていくことはできないが、いずれあらためて検討していきたい。
馬場越中守によって運ばれたもう一つの神、田舎不動尊も不動様の前についている「田舎」は、もうイナリの文脈でしか考えられなくなっているので、「鋳土処」となるしかない。「鋳る土のある場所」ということになる。
『播磨国風土記』、「伊奈加川。葦原志許乎命、天日槍命と、国占めましし時、嘶く馬ありて、この川に遇へりき。故、伊奈加川という。」この地名説話を引用し、「・・・もっとも今のところはそれについていう必要はない。ただこの<イナカ川>が<鋳土処川>でありうることをいえばよいのであった。(中略)ここは<鋳土>(砂鉄)のある場所ないしそこから流れる川であって産鉄業者の利用する川であった。」(同前掲書)
播磨国(兵庫県)は南会津からは遠いが京都には近い。伏見稲荷が鎌倉から田沼を経て、宮床にやってくるまで800年あまりの時間が経っている。その間に携わる氏族は変わっても、その稼業の神は少なくとも戦国時代までは変わらず祀られている。と思いたい。
ホイト岩には「銅の採掘をしたと伝えられる洞穴が沢山ある岩山、通称ホイト岩」という『里の散歩道』の解説がある。もちろんホイト岩の採鉱穴が古代のものではないだろうが、和銅四年に稲荷を祀った秦氏と銅山が関係していると仮定すれば、その子孫に銅山経営の伝統は伝えられているだろうし、その知識と組織をもとにして要職にもついただろう。彼らの一族は諸国に散らばって採鉱技術とその神を拡散し、祖先は神として稲荷山や稲荷塚という名を冠した古墳に葬られた。それは鉄の剣が宝物とされ、鋳物や鍛冶が神の技とされた頃だろう。
宮床に運ばれた稲荷の鎮座していた田沼は、足尾銅山の麓でもあり、足尾は上代・中世には田沼と同じ安蘇郡に属している。またイナカ不動尊は日光二荒山神社のある憾満ヶ淵からだと考えれば、採鉱氏族にとっては最強の組み合わせだ。(二荒山神社については舘岩村の地名ブログ(前記事『祭神と伝承 その3(古布)』などを参照)
数年前和銅遺跡を見学する機会があったが、今は木に覆われた、さほど高くない岩山で、ところどこ深く切れ落ちた断崖があった。山際に里が密着している、隆起と浸食の作り出した地形は懐かしさを感じるものだった。南郷村の国道289号線・401号線を通るとよく見る景色でもあった。
ここに再度宮床の稲荷神社由来を引く
「馬場兵庫頭綱重後越中守と号し宮床村、北原、台、板橋村の領主となった。越中守は足利十二代義晴将軍の大永二(1522)壬午年下野国民家没落後流人となりて釜ヶ淵に祭礼されている田舎不動尊と田沼の稲荷様を奉じて宮床に来り・・」ここに「宮床村、北原、台、板橋の領主となった」とあるのは、由来記の語り事的誇張だろうと思われるが、この時代の領主は伊南郷の河原田氏であり、越中守はその臣として仕えたにすぎない。しかしここに語り事的に織り込まれた歴史を見ようとするなら、イナリを奉じ、イナカで働く氏族が領したところは、すなわち鋳土処なのではないか。そう読むことで台山にあった大宮鉱山も越中守の視野に入っていたのではないかと推察できる。また北原にある鹿島下の地名や北原山にあったといわれている鉱穴も中世かそれ以前の採鉱伝承を抱えてのものと考えられる。
そして馬場越中守綱茂伝承のもつ始祖伝説な性格からは、その試みは一定の成果をあげていたのだろうと思われる。河原田氏は、戦国時代に向かってざわついている時代に、郷の北端の要衝に(ヘツリ地形は要衝であることが多く、対岸の鴇巣村とで東西の街道をおさえている)、採鉱と冶金の技術を持った氏族を配置した。主家没落の末に流れ着いた氏族を配下に置いたら、まったく偶然に、採鉱、冶金にたけた氏族だったなどということが、あるわけはない。その来歴がぼかされているのも語りごと的な省略によって、主筋を強調する演出なのだろう。こんなドラマチックな記録は文献では残しようもないだろう。語りごとの持つ持続力に感心している。
宇都宮二荒山神社は宇都宮市内、宇都宮氏の本拠地にある、鉄の鳥居や鋳物の仏像などが奉納されていたことでも有名だが、田沼の稲荷も銅の鳥居(江戸期)があり、流通で栄えた町らしく祭礼も派手だったように記録される。ここからは(これもまた?)全くの推測だが、これらの特徴を持つ稲荷様と不動様が宮床に勧請されたなら、やはりその祭祀の面影は引き継がれるのではないだろうか。かつてこの地域にはなかったような、宮と祭りを越中守がもたらしはしなかったか。その奉持されてきた神は、村人に新たな稼業ももたらして豊かにしていったことが、宮処(宮床は好字)を村の名にした大きな理由ではないかと、妄想はつぶやいている。



