(頭の中の)重箱の隅に「下宮床」がある。何百年も当たり前のものとして日常の中にある地名を、立体的に読み解こうとすると、どうしても些細な痕跡を見出そうとして(頭の中の)目を皿のようにしてしまう。この皿のようにした目で、重箱の隅をつつかないことには、新たな視点は見えてこない。下宮床についての記述は二つある。
①「ホイトウ岩の麓に位置し、旧沼田街道沿いに民家があり一集落を形成していた所である。この下宮床当時の氏神様は「八龍神」で大きな石の祠であったが、今は稲荷神社に移された。」(『里の散歩道』)
②「昔、安照寺の倉の北側に三軒の家があり下宮床村と称して、お寺の上がり口南に墓もある」(『南郷村郷土誌資料6』-「八龍神」)
①では元の八龍神は「大きな石の祠」があり本尊は石像で60センチというからかなり立派な氏神様だ。②にある「三軒の家があり下宮床村と称して」という集落の規模ではできそうにない。また三軒では「村」とはしないだろう。この二つの記事は明らかに別の時代の様相で、おそらく②の状態は集落としての下宮床の最後期の姿を伝えるものであり、「墓もある」とされることからは、江戸時代中期ごろかと推定される。①の時代の祭祀の施設からは、①の時代の下宮床は②よりは大きな規模があり、少なくとも「下宮床村と称して」いるような集落規模だったと思われる。どちらの記事にも時代を特定できる記述はないが、命名の順序には違和感がある。
『南郷村郷土誌資料6』では八竜神が稲荷神社より先住で、寛文十二年に稲荷神社に合祀したと記し、いつのころか下宮床の住人も現在の村に引っ越したとされている。しかし通常、地名の頭に「下」がつくのは、村の規模が大きくなって上下の区別が必要になってからなので、宮床村(上宮床ともいう)がないうちに「下」宮床とは呼ばれない。すると下宮床の地名は宮床村ができた後でなければならないことになる。八龍神を祀った先住の人々の住んだ地名が後についたことになってしまうという矛盾が、重箱の隅で気になってしまう。つまり「下宮床」は宮床村ができてから改名された可能性が高い。
そして改名と言えば、以仁王伝説で稲葉村を宮床村にしたという伝承である。この「稲葉村」が「鋳土場村」(前記事「宮床1」・「宮床2」参照)であり、下宮床の旧村名だと考えると、この矛盾は解決される。稲葉村(下宮床)は、越中守が祀った稲荷の「宮処」を鎮守として拡大する宮床村に吸収合併されていき、それにつれて元の場所を下宮床と呼ぶようになったと考えれば一応丸く収まる。この際に疑問になるのは、寛文五(1665)年の『村々改帳』に宮床村があり、永正(1504~)・大永(1521~)からの期間が短いことだ。村名が定着する時間とはどれ位なのだろう?稲荷が宮処ではないとしたとき、先住者が祀った八龍神の「大きな石の祠」を「鋳土場村の宮処」と考えることもできるだろうか。
とにかく、銅を掘った跡がある(おそらくこの採掘跡は大正時代の試掘跡だと思われる。宮床に五か所の試掘届が出ていて、金・銀・銅・鉄・亜鉛などが対象)というホイト岩下の下宮床が「鋳土場村」だったなら、どこの集落にもあったイナバ(稲場)というまぎらわしい呼称でも、他との差別化ができるようになる。同時に、鉱石が掘り尽くされて、もはや「鋳土場」ではなくなれば、そこで稼働した人々は他の地に移るか、とどまっても別の生業で生きていくことになる。集落は縮小し、時を経てもとの意味がわからなくなれば、「イナバ」は稲場や稲葉に置き換わることになる。
平安末の炭竃跡全部で42基出土左は煙道を指している。 右は最大長約9m
「出雲国の伊耶佐の小濱に降り到りて、十掬の釼を抜き逆に浪の穂に刺し立て、其の釼の前に趺み坐、其の大国主神を問いて言わく」(『古事記』角川文庫)
というタケミカヅチがオオクニヌシに「国譲り」を迫る場面だが、この後オオクニヌシは「底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて・・」という出雲大社に祀られる。これを唐突に引いたのは、神話は極端な比喩と象徴化で歴史を語り伝えようとする記録の一部だと考えるからで(前記事「南郷に見る古事記の世界」など参照)、宮床の祭神の変遷と伝承にもそれが見出せるからだ。(オオクニヌシにはイナバの白兎の話があるのも偶然ではないだろう)
鋳土場村が古い技術の採鉱集落(オオクニヌシ)なら、馬場越中守綱茂の居住は新時代の同業者(タケミカヅチ)であり、新しい技術で宮床村を繁栄させたのかもしれない。時代は戦国時代になり、郷の境界にある宮床村は「根小屋」としての役割を強化する必要があっただろう。量産・武具需要などに関わる新しい採鉱技術か、精錬や鍛冶などが越中守伝承に関係して考えられないだろうか。新来にもかかわらず村の鎮守となった稲荷神の祭日に、今でも八龍神が幡を立てて祀られるのは、採鉱稼業の祖神への敬意を忘れないためか、あるいは先住者の祟りを蒙らないために祀る必要があったのか。どちらにしろ、鎮守の交代する伝承の中には、オオクニヌシを天空の社(出雲大社)へ祀り籠めた天孫族の物語と型を同じくする、「村譲り」の過程が見えてくる。
神話は事実ではないが、根も葉もないというわけでもない。極度に象徴化された社会の構図であり、文字のない時代の記録でもある。ここに引いたタケミカヅチ(鹿島の神)やその剣フツノミタマ(香取の神)は「征服」の記号でもあるし、ヤマトタケルは「討伐」の記号でもある。「討伐」される側からみれば「侵略」にほかならない。会津におけるオオビコとタケヌナカワワケについてもそれはあてはまる。原発の「安全神話」が代表するように、現代にもそれらの神は生きている。アンシンアンゼンノカミ、サイセイカノウノカミなどが 。これらのカミの霊験には個人差がアリマス(笑)。
イナバが「鋳土場」と考えた時に、関連するかもしれない地名として、宮床沢支流の「炭焼場沢」とその上流に「炭焼場山」がある。これもどこにでもありそうな地名でそれ自体に別の読みはないだろう。しかし近現代の炭焼作業は個人の持山ですることが多いように思っていたし、周辺の材料を伐ってしまえば移動するのだろう炭焼場が、村の地名として残っているのが、単なる地点名とは違うタイプの地名のように思えた。もちろんこの地名がいつから使われているのかはわからないので比較的新しいことも考えられるし、500年以上前の炭焼について知るところは何もない。ただ木炭が商品として市井に流通するのは、街道が整い都市が発達した江戸時代中期から、とどこかで読んだ記憶があるのと、それより以前に大量の炭を必要とするのは鑪による製鉄(銅)だろうかという推測による。その線で、この地に数多くあるのにわからなかった「スガマ」(前記事「スガマ」参照)という地名との関連が気になってもいる。
宮床の山はほとんどが急斜面で、緩斜面になる尾根近くには山口村と界村が回り込んで奥で接している(境界を示す地名の「十文字」)ので東も南北も狭い。両隣村の山の谷間が宮床の山というような地形なので、山と運搬路が限られていることから、炭焼場山の炭資源を村全体で運用していたことは十分考えられる。
考古学が、遺物を掘り出してその当時の社会を復元して読み解くことが目的なのと同様に、神話や神名は、言葉という無形のものに残された歴史でもある。言葉に残された記号という意味では古い地名にも同じことがいえるだろう。神話とは違っているのは、地名がそこで生きた人々の生活に密着していることで、地名にまつわる伝承には現代でも風土記的な面白さがあることだ。
『山の散歩道』「台・板橋」にある「弥平沢」「佐平沢」の解説にその例をあげてみる。(台・板橋は山口村の端村で宮床と接する)
「昔宮床集落の分であったが、愛宕山が険阻で越すに容易でなかった時代に、ある行路病者(乞食)が峠を越しきれず、北沢口で息絶えてしまった。その死体の始末に山口と宮床の争いとなった。宮床の代表者(名主であろう)は、強引に境界は沢境でなく愛宕山の峰境であるとして山口村に死体を処理させた。以後、宮床弥平・佐平がよく出入りしていた一帯も山口村に任せてしまったという。」
これが事実かどうかよりも、おそらくは慣例と違っている地点(境)の現実をわかりやすく理解するための付会であり方便なのだろうと思う。韻を踏んで対になった沢名といい、まさに風土記に見られる地名説話そのもので、木伏の草刈沢(クソッピリザー)の地名譚(前記事「いなくなった火の神」参照)とも共通する風土記的伝承といえるだろう。
それてしまったので本題に戻そう。下宮床の地勢は、現集落の中央にある集落最大の宮床沢から、安照寺の南側に寺沢と別当沢があり、短い山裾に沢が集中して段丘下を流れ伊南川に合流している。かつて段丘下の氾濫原は容易に耕作できる場所ではなかった。北端ホイト岩の山側を通り界村に越える、上州街道の牛首峠の麓という交通の要所という立地だったことが、安照寺とともに下宮床の集落(村)の役割に関係していそうに思われる。馬場越中守が愛宕山のヘツリの麓で果たした役割を下宮床がホイト岩の麓で担っていた可能性だ。両者の地形と街道との位置関係はよく似ている。双方とも人や荷物の通行を監視するには適しているが、愛宕山の方がより険阻で、北からの侵入者を防ぐ意味では適していると思われる。
本文とは無関係 顔を剥がれた近所の六地蔵 明治の廃仏か ナム・・
八龍神の祀られていた「別当沢」の地名も『山の散歩道』では解説が空白で由来がわからない。『地名用語語源辞典』を引くと四番目にある「中世、荘園の事務を担当した荘官。その居住、所領による地名か」というのが最も状況に近いかと思われるが、越中守がこれにあたるのか、時代によって別当の意味合いは違ってくるらしいので、これもやはり歴史家に委ねることとしよう。
ハネクボに「羽木平」の漢字があててあるのは、この地の表意を示すものとして、ある意味興味深い。界村にある「カベトリバ」や台・板橋の「ネバ」と同様、粘土(埴土・壁土)がとれる場所を表す「ハニクボ」で、東京の赤羽、埼玉県の羽生や山口県の埴生などと同類の地名。土器、埴輪から建築材としての利用まで用途の広い土だった。
山口村の北原との境にある丸山の下に「タイコンドウ」という謎の地名がある。宮床沢の上流左岸の山にある。地形についての記述がないのでどのような立地かはわからない。台・板橋からも拾われていて「テイコンドウ」と記され「丸山下あたりの清水の湧き出るところをいう。太コ胴、太コ堂と書かれているのが多いが、はるか以前に『大金堂』があったとも考えられるという」という解説がある。どれくらい「はるか」なのだろうか(笑)。金堂はご本尊を安置する堂のことで、その呼称は寺院の本堂になっていく。どちらの記述も地名の始めが清音なのは、この地域の訛りを考えると「大」ではないことの傍証になるかもしれない(ダイはデーやデイとなる)。これについて『南郷村史』に気になる記述があった。
宮床の来迎山安照寺は現在、浄土真宗高田派(明暦元(1665)年改宗)だが、「安照寺はもと太子寺といい阿弥陀如来と聖徳太子を安置しながらこの二尊を守るという寺であったようである。」や「会津にはかつて沢山の太子守の寺、あるいは庵、道場があり、これら太子守の一派は「太子守宗」などとも呼ばれていた。」(『南郷村史』民俗編)という記事からの類推でしかないが、「タイコンドウ」、「テイコンドウ」はこの太子守宗の庵や道場にあたる「太子堂」の可能性があるように思う。「太コ胴、太コ堂」と「太子堂」を並べてみると、地名にはありがちな誤写や誤読の結果という可能性が疑われる。
また上州街道が山口村に通じる道筋にある地蔵沢には、土石流で流されたといわれる集落?があり、耕地整理の際に、地下深くから(6尺)鎌倉時代の櫛や水田跡(稲株)が発見されている。台の若宮八幡に合祀される鹿島大明神は、この流された集落の氏神だと伝わる。近世の上州街道は愛宕山を峠として越え、北原の北沢に下るが、宮床沢から登ってタイコンドウを通り、尾根伝いに地蔵沢上流部から山口村に回り込む古いルートもあったとしたら、そのルートの清水の湧く傍らに辻堂のようなもの置かれることは考えられる。前述の鉄砲水などの理由でそのルートが使われなくなり、さらに安照寺が太子守宗から浄土真宗へと改宗したことで太子堂への信仰そのものも薄れて、地名の意味が不明になってしまったかもしれない。
最近のお気に入りの風景 八ヶ岳と田植え直後の水田
宮床愛宕山のヘツリの北麓段丘上にある内城は中世、宮床館という館跡で、馬場越中守綱茂が勧請した田舎不動尊はここに安置される。この段丘に沿って北に向かうと、集落のはずれにある「不動面」という村の共有地の地名は、「不動免」であり、不動尊の祭祀のための米を作る免税田だ。隣の界(集落)には「十王面」があり、これも「十王免」で十王堂を祀る同様の免田だ。慧日寺以来の仏教王国である会津盆地内には、太子免(清水田村)、地蔵免、阿見タ免(阿弥陀)(立石田村)、観音免(鶴野辺村)、太鼓免(勝常村)(これは太子の可能性もあるか?)などの地名が残る。(『角川地名』福島県)
宮床の地名には、このテイコンドウや前に挙げたキュウデイママ(急泥ママ)の他にも、音読みの地名で意味の分からないものがある。シップウキ(疾風騎)、ガンニュウドウ(蟹入道)などで、地名辞書より妖怪事典を引く方がいいのかもしれないが、これらは他の地域の考察を進める中で関連するものがでてくることを願って次に進もう。
(「蟹入道」については前記事「蟹のいる地名」で少し触れました)
(宮床おわり)




