伊南川西岸の大橋は伊南郷古町組下十三箇村の南から二つ目にあたり、対岸の山口、大新田、水根沢は古町組上、北隣の鴇巣、南隣の青柳は同組となる(『新編会津風土記』(1803~1809))。この伊南郷古町組下という組は、南端の鴇巣から北端の桧枝岐まで、川の西岸を30km以上にわたる。川を渡ることの困難さが、領域に与える影響の大きさがうかがえる。東岸は組の中央部に関東や会津若松方面への峠が複数あるのに比べて、西岸は川を渡らない限り、南端の桧枝岐から上州、下野、越後方面、北端から会津若松、越後方面へと道はあったものの、いずれも深い山地を越えなければならないので便は悪かった。
大橋村には「イッポンバシ」、「フルハシバ」、「フナバ」などの地名が残るが、これらの地名にも対岸の山口村松原へ渡ることへの強い願いが残されているように思う。
『山の散歩道』の編者も「大橋」の村名由来は気になっていたようで、1570年代、安土、桃山時代・天正の頃をさして「そのころは、すでに大橋という名で呼ばれていた。それ以前の大橋という名称については、詳らかでない。」と解説している。『新編会津風土記』の大橋村の項にも、橋は長さ二十間(36m)の丸木橋とあり、伊南川(桧枝岐川)上流の隣村である青柳村、下流の鴇巣村も同じく、二十間の丸木橋となっている。この「大橋」が村名になったわけを考えることから始めてみる。
金山彦の軸・奥会津博物館展示2018年「呼吸する集落」より
『山の散歩道』の解説が引用している文献がわからないが(中世伊南郷を領した河原田氏の文書?)、文献に天正時代には地名があると記されているのは有力な情報だ。江戸時代に各村の伊南川支流の沢にかけられた橋は七間(12.6m・小塩・久川)、八間(14.4m・木伏・八窪沢)、十間(18m・山口・戸山川)と、本流の伊南川にかかる橋の半分以下の長さとなっている。形態も山口を除いては一本橋で、山口の戸山川(現・小屋川)の橋は幅一間(1.8m)とあって、牛馬も十分通る立派なもので、東岸の街道としての機能を考える時には重要なことになるだろうが、ここではふれない。地名辞典によると「大橋」という地名は「長い橋、立派な橋又はその所在地」と定義されるが、『新編会津風土記』の時代になると、すでに多くの村にも同規模の橋があり、大橋のものが「大橋」とはいえなくなっている。安土桃山時代以前には大橋の地名があったことは、橋はそれ以前に架けられたことを確実にする。『新編会津風土記』の時代より二百年以上前に、村内の沢にある橋の倍以上の長さの一本橋を初めて伊南川本流に架けることは、伐出、運搬や設置技術も桁違いなものになるだろうから、かつて無い規模の架橋工事成功の達成感や、橋のもたらす未来への期待感が「大橋」という命名の動機になることは大いに考えられる。
橋材のサイズの参考として、元禄五(1692)年、入小屋戸板沢から長さ十一間半(20.7m)、幅一尺八寸(54cm)、厚さ一尺三寸(39cm)の桂材を「三日間、人夫共千人役にて大橋村にひきつけた。」(『南郷村史』民俗編)などがある。このような大掛かりな工事にもかかわらず、技術が進んで高さを確保できるようになるまでは、雪解けの出水や台風などの洪水により、わずか数年単位で流失することを繰り返している。生育に数百年はかかるだろうと思われる橋の適材はどんどん少なくなっていっただろう。この例では山で角材に加工しているので厳密には丸木でもなく、軽量化と運搬時の安定化を図っているようだ。また長さも足りていないので、この時(元禄五年)には丸太一本の橋ではなく複数の材を橋脚で繋いでいたと思われる。(下の図は近代のもの)
『南郷村史・民俗編』より拝借
地名に「イッポンバシ」とあるので、両岸に一本の丸太をかけ渡すようなイメージを持ったが、そんな巨木はそうそうない。記録のない初期に、ソリッドな一本橋だったという可能性が無いわけではないが、あくまでも構造体が一本橋ということのようだ。地名が残る一帯は、地形的にも両岸が岩盤で川の浸食が進みにくく、岩盤が川に張り出した部分もあって、現代の地図でも大橋と山口の所は川幅が狭まっている。現在の鉄筋コンクリートの南郷橋も昭和41(1966)年竣工は南郷村で最も早く、それから次第に川幅の広い下流へと建設されていく。時代と技術は違っても、建設地点の選定には流通の便と建設に容易な地形の双方から、似たような場所が選ばれることになるようだ。中世と現代という何世紀もの時代をまたいだ共通点を、このような生活向上志向と、それを克服するための土木技術などに見出すのは驚きと愉しみがある。
前記事の大新田のところで、大橋にあったヌイダ村に触れ(前記事「大新田と伝説のヌイダ村」参照)、その際はぬいだ村に住んだ大塚織部正の来歴について探偵した。大橋と山口を繋ぐ架橋の時代が天正以前、ということを前提として、大橋に関係する伝承からもう少し「大橋」架橋の時期をしぼれないかを念頭にしつつ、大橋と大新田とヌイダ村の関係をくだくだと考えてみる。まず伝承を見てみる。
①「下野国大塚村領主、大塚と名乗る人が応永十(1403)年字中山に住し、縦の平に田畑五反位を耕作しぬいだ村をつくったと伝えられている。」(『里の散歩道』1997刊 大橋・中山の解説)
②「安土・桃山時代・天正のころ(1570年代)、伊南郷久川城主河原田公が大橋の柵に大塚織部正を館主として配していた。」(『山の散歩道』1994刊 編者による大橋の紹介文)
③「年代不詳であるがその昔集落があった場所という。現大橋集落の氏神様社殿の跡と伝えられる場所に大きな社木の切り株が残り、その下部より清水が湧き出ている。現在は金峯神社に合祀されている。」(『山の散歩道』大橋・ヌイダの地名解説)
④「ぬいだ集落があった頃は、北野神社が氏神様であったと伝えられ、大新田集落はぬいだ集落の分村であり、(大新田の)北野神社はぬいだ集落氏神様の分社であるという。」(同上)
⑤「下野国大塚村領主、大塚修理介藤原行葉とゆう人が、応永十年末秋八月此村に来り字中山に住した。翌十一年四月日光三社、石神、春日稲荷を祀った。縦の平とゆう処に田畑で四、五反あったといわれ「ぬいだ村」と呼んでいた。ここに六代目まで住し、七代目が今の大橋に移り住んだといわれその時から屋敷神として祀る。」(『南郷村郷土誌資料6』1966刊 大橋・大塚家の屋敷稲荷神の由来)
⑥享保元(1716)年八月十七日大橋、角田藤左衛門の日誌に「日光・蔵王・天神共に三社立替え御遷宮」(⑤と同書、大橋・金峯神社)
⑦「伊南郷 状未審民業射猟火耕」(『会津風土記』1666年 保科正之による『寛文風土記』)意訳すると「(伊南郷の)民はいまだ狩猟と焼き畑を業とす」つまり、水田による稲作はしてませんよと読める。伊北郷も同文。
これらを整理すると、①は⑤の記事が元になっているようなので、より詳細な⑤を生かして①は省く。
⑤で応永十(1403)年に大塚修理介藤原行葉がぬいだ村に住み始めたというのが、当初から河原田氏の配下としてなのか明らかではないが、天正(1570年代)の頃大橋の柵に大塚織部正が館主として配されていた②の記事から、河原田氏が天正十七(1589)年の伊達政宗による会津侵攻によって滅亡する頃まで大橋の柵に大塚氏がいたと推定される。⑤に六代目までが「ぬいだ村」にいて、その後七代目は現在の大橋に移り住んだことは、一代を三十年弱と考えると、年代的にも不自然ではない。むしろ整合しすぎることが疑問にもなりうる。ヤカタアトの地名が大塚氏の館跡と伝わっていることから、タテノヒラは現在の「縦の平」ではなく「館の平」で、これも中山に作られた「ぬいだ村」に伴う地名と思われる。
かなりの食い違いを見せるのは神社で、③では「現大橋集落の氏神様」が「金峯神社に合祀されている」といい、④にはぬいだ村の氏神は北野神社ということなので、金峯神社に合祀されているのはぬいだ村の天神社(北野神社)ということになる。しかし現在の大橋の鎮守は日光から勧請した二荒山神社であり、③の記事と符合しない。一方⑤によれば、応永「十一年四月日光三社、石神、春日稲荷を祀った。」そこを「ぬいだ村と呼んだ」。この記録からは、日光三社が氏神か家神か確かなことはわからないが、七代目大塚氏が大橋に移り住んだ時から屋敷神として祀られている稲荷が、応永十一年四月にぬいだ村に祀られた春日稲荷と考えると(「春日稲荷」といった場合江戸時代のものなので、これは伝承的な修飾として「稲荷神」と理解しておく。)日光三社と石神をどうしたか。「石神」は村境の道祖神(サイノ神)か、蔵王権現の御神体か、中山の西奥にある虚空蔵岩に関連するか、いくつかの可能性がある。そして現在大橋の鎮守である二荒山神社がこの日光三社ならば、ぬいだ村は大橋村そのものの可能性もでてくる。⑥から、江戸時代の大橋では「日光・蔵王・天神」がそれぞれ祀られていたとわかり、蔵王大権現社は昭和四十年に二荒山神社に合祀されるまで字二百刈にあったので、④の金峯神社に合祀されたぬいだ村の氏神は天神社で間違いないだろう。しかし大新田の鎮守北野神社の方には、大橋との関係を示す記述がない。北野神社=天神社は木伏でも祀られていて、舘岩,伊南にもあるため、大橋からの分社であるという④の伝承を裏付けることはできない。齟齬をきたすのは④の伝承で、さらに整合性をを詮索するには手段が足りない。
ここでまた、愚痴を並べることになってしまうが、明治維新と共に施行された廃仏行政の影響は、このあたりにも色濃く反映していて、実に煩わしい。千年近く神仏習合形式で祀られてきた神社・寺院・修験祭祀・村の祭祀の繋がりが明治時代に断ち切られたことで、多くのことが見えにくくなっている。ここに出てくる日光三社=日光神社=二荒山神社(明治四年改名)、蔵王大権現=金峰神社(明治四年改名)、天神社=北野神社(明治五年改名)、大新田の北野神社も改名とはかかれていないものの、明治四年に勧請しているのは改名に伴った再勧請だと思われる。『新編会津風土記』の大新田村では天神社とされている。水根沢の日吉神社は山王社、和泉田の八雲神社は牛頭天王社と、上げればいくらでも出てくる。会津藩は江戸期にも神道への統一をすすめているので、合祀や改名は多いため本来の祭神は見えにくいのだが、国家をあげて行った明治のものは、明らかに信仰とは関係のない祭神にまで変えていることがさらに煩わしい。蔵王大権現の祭神が「勾大根広国押武金日天皇」(安閑天皇)とされていたり(一説では、本来の祭神である金剛蔵王菩薩と「金」の一字が共通するからという意味不明のものも)、宇都宮二荒山神社の祭神がトヨキイリヒコとされたり、日光二荒山神社の祭神にヤマトタケルが入っていたりするのも詳細を調べれば明治が出てくるのだろう。荒海川流域の二荒山神社もほとんどがトヨキイリヒコになっているため、日光との信仰経路の推定に支障がある。そこを曖昧にしたままで明治以前の千年以上の信仰の歴史を背負っているかのような、現在の神社のあり方には疑問を禁じ得ない。(前記事「ぁ・天孫プリーズ」など参照)
ぬいだ村の初代大塚氏が祀った日光三社=二荒山神社→大橋の鎮守という方向でいくと、ヌイダ村→大橋村が自然に思える。これほど情報量のあるヌイダ村が突然消えてしまい、それについての伝承も見当たらないことには、前記事の時点でも不審を持っていたが、この方向なら納得できる。特に⑤に六代目までぬいだ村にいて、七代目に屋敷稲荷神と共に大橋に移ったという記事は具体的だ。この期間に「大橋」の出現時期を推定できる。②の大橋の柵は戦時に対応するためのものだろうが、⑤には田畑四、五反を作ったとあり、大塚氏定住の始めから戦時体制ではないようだ。
ヤカタアト、タテノヒラのある「中山」の地名について前記事では、南隣の青柳村との間にあるからだろうと書いたけれど、吉野裕著『風土記世界と鉄王神話』で、「中山」が鉱物を産する「土処山」という可能性を教えられた今は、前言を訂正しなくてはならない。下の図で示すように、さらに中山の隣は『伊南郷土誌』に加賀美氏の探訪記のある「金山」なのだった。(下の地図参照)(前記事「小塩の焼け焦げやくっ様」参照) この件は舘岩と田島をつなぐ中山峠にも言えることで、峠の地下には八総鉱山があった。どこにでもある地名で気に留めることのなかったものが、突然存在感を増してくる。有数の産鉄地である吉備(岡山県)の国の枕詞は「まがねふく」で、マガネは鉄だが、吉備の名勝を示す歌枕は、「吉備の中山」というのも、これらにつながるヒントだろう。ぬいだ村には「四、五反の田畑」という伝承はあるものの、水田や稲作だったかは疑問で、⑦「伊南郷 状未審民業射猟火耕」(『会津風土記』1666年)とあるように、応永十(1403)年の250年後でも耕作は焼き畑が主なのだ。「土処山」で掘った鉱物を砕き、水流で選別する場所が「田」で、「ヌイダ」は「鐸鋳田」、「渟鋳田」(鐸石別、武渟河別などに使用例がある)の意を表しているかもしれない。そしてぬいだ村が大橋村になる理由として、この産業の興隆が橋を架けることを要請し、最盛期にはそれを実行する財力もあったのではないかと考えている。⑤の大塚氏七代目が屋敷神に祀った稲荷神は、宮床でも触れたように「鋳土成り」のイナリと考える。ヤカタアトの地名解説に埋蔵金伝承があったり、旅芝居の一座の女が落水したというオセンコロバシもぬいだ村の地域にある。(前記事「オセンコロバシ奇譚」参照)中山の中世に鉱山があったと妄想すれば多くの伝承が実像を伴ってくる。
『里の散歩道』付録の地名地図 中山と金山の位置 中央の太い線が伊南川
橋場は前述したように地形や地質に規定されるため、橋ができれば橋場を中心に村は発達する。鉱山の宿命として、掘り尽くすことで採鉱産業が下火になっていくとともに、繁栄は生産地のぬいだ村から流通の大橋の方へ移り、その後の村の生業にも橋は大きく貢献することになる。田島の荒海川(私の中では鉱峡川だが)流域でもその跡は見られる。(前記事「荒さがし」・「もっと荒さがし」など参照)大橋のある家は昔鍛冶屋だったと伝わり、屋敷神に「家内神様」を祀り、家に伝わる金山彦命の掛け軸(冒頭の写真・つかみに使わせてもらいました)を飾って十一月八日に祀っていた。(『南郷村郷土誌資料6』)岐阜県南宮大社は鍛冶屋の神として信仰を集めるが、祭礼のふいご祭りは十一月八日である。「家内」は金鋳であり、同音のためいつからか家内が当てられたのだとわかる。
**伊南川西岸の街道について考えをまとめるつもりが、資料・勉強とも不足気味のため宿題として先送りします。次は伊南川西岸最北端の鴇巣村の予定です。伊南郷の最後に成ります。いつもご覧いただいている皆様、ありがとうございます。最近愚痴っぽいですが、お付き合いいただければ嬉しいです。


