江戸時代には古町組下で北西端の鴇巣村は、伊南川西岸の山際に沿って細長く、多くの集落が段丘上に発達した中で、比高差がさほどない氾濫原の山際にあり、西から集落に流れ出る瀬戸沢の扇状地に居住地が集まっている。古来より幾度も氾濫による流路の変化や山崩れなどに翻弄されてきた。集落の南端の山際にはジロウブチ、タロウブチという川跡が残り(私の子供時代にもタロウブチは沼で鯉や小鮒釣り場だった)、北端のハコブチも沼地だった。現在水田が広がっている地帯はほとんどが、暴れる伊南川の流路だったようで、ムコウガワラ、カワシロ、カワクボ(カミ、シモ)、シモガワラ、イリノカワラ(インニョカーラ)、シタガワラ、ダイガワラ、サンカクテイボウ、の地名はすべて水田地帯になっている。現在中学校のある集落の段丘上に祀られていた水神様は「昔此処に堤防を築き必至と防水したる処」(『南郷村郷土誌資料6』1966)で、農業に必要な水の神というよりは水除けの願いを込めた水神だったようだ。拙稿が並々ならぬ恩恵を受けている鴇巣出身の郷土史家・民俗学者の安藤紫香氏は、その著作に度々「昔の伊南川の水量は現在の十倍もあり・・」と記すが、これは大正時代に水力発電開発と関東の水需要のため、伊南川の水源地尾瀬から関東と只見川に水量を分散した結果だった。「十倍」の正確性はともかくとして、暴れる伊南川のもたらす禍福が現代とは比較にならないほどだったことは確かだ。(『こんな暮らしがあった』安藤紫香著1981歴史春秋社など)
現在の鴇巣北端から旧河床・奥に見えるのが集落
「昔は、いどき村(ゐどき)と呼んでいたが、時代は定かでないが中世のころ、いどき村は瀬戸沢入口が南の端であり、熊野神社までは一丁ありと古書にあり、その村はずれの神社の森に毎年鴇が巣を作ったことによりいつしか鴇巣と呼ぶようになったと伝えている。古文書には鴾巣・鵜巣・鴨巣などと書かれているが、貞享二(1685)年、鴇巣と改められ・・・」(『南郷村史・民俗編』)
整った由来譚に付会を疑う悪い癖で、由来が風流すぎる(笑)と怪しく思える。食料や薬草、毒草など、植物採取地は地名になることが多いが、移動する動物が地名になることは珍しい。領主や将軍が狩猟用の鷹を保護してついた御巣鷹山や鷹山、カスミ網猟の猟場となる鳥見山、鳥屋山などは多くあるが、これらは地名としては比較的特殊な例だ。古文書には「鴾巣・鵜巣・鴨巣」とも表記され、これらの表記のように、鴇だけではなく様々な水鳥が集まり営巣していただろう。そのどれであっても、書いた人はトウノスとして書いていると想像すると微笑ましい。
水鳥繋がりなので、地名に関する思いつきをメモしておくと、隣の田島町にあった鴫山城の命名が気になっていた。「鴫山」と「田島」に離合迷字(偏と旁を離して謎にする「泉」→「白水」など)を疑ってもいる。もう一つ、よくわからない伊南村の「恥風」も、旧字表記「耻風」が暴風を止めたいという命名の狙いがあったのではないかと考えてもいる(前記事「怖いから天神様」参照)。これら一種の呪いを兼ねた文字遊びのような地名があるとしたら、それらは地名変遷の何段階目かになるだろう。人が住み始めた当初にあったものではなさそうだ。
鴇巣に話を戻そう。埼玉県鴻巣市をはじめ栃木、茨城にもある鴻巣は、関東平野に利根川や荒川などによって運ばれた土砂でできた、比高の低い台地を表す「高の州」に由来するという説があり、そこが国府だと「国府の州」ともなる。また、コウ=コフは大型の水鳥をさし、ノスの部分は「州」という土砂の堆積地形であり、伊南川河床と比高差の少ない氾濫原にできた立地条件から、「トウノス」を「コフの州」とも考えることができる。コウ(コフ)はトウに転訛しやすい。「コウ(コフ)の州」なら、支流の舘岩にある古布沢・古布金山・昆布沢の地名、日光古峯ヶ原(古峯神社)、近世まで郷名としてあった同郡下郷町の阿賀川東岸旧旭田村の九々布(古々布)郷、下流の伊北郷にある九々生などとともに、大型の白い水鳥(コフ)としての「鴇」とも考えられ、同時に採鉱産鉄民とつながりを持つ「コフ」地名としても関連してくる。(前記事)「祭神と伝承」その三(採鉱地名)」参照
ただその場合、「いどき村」の由来伝承を「鴇巣」を説明するための付会、と考えなくてはならないのは苦しい点だ。この流域には他にも湿地の多い地域はあるが、鴇の営巣を伝えるような伝承は今のところ鴇巣以外には見当たらない。下山に「ツルガフチ」があるが、このツルは崖地形のツル(山梨県都留市など同様)だろう。
鴇巣集落航空写真・左広場が南郷中学校その右端が熊野神社・中央上が瀬戸沢(『山の散歩道』)
『村史』に記載された「いどき村は瀬戸沢入口が南の端であり、熊野神社までは一丁・・・」という伝承のように、現在はほぼ集落中央に流れ出て北端で水田地帯に入る瀬戸沢が村の南端だったなら、中世の時代に村一つ分が南に移動していることになる。しかし現在の山際を北流していくこの部分は近世の治水によるものだろう。古書(原典不明、おそらく『新編会津風土記』)の「熊野神社までは一丁」という距離は60間=109mで、現在の村と熊野神社の距離とほぼ同じ。瀬戸沢はもと鴇巣沢といった(『鴇巣村郷土誌』)というから、瀬戸沢扇状地である鴇巣村は早くからこの沢を中心に発達したと考える方が自然だ。瀬戸沢から熊野神社までは、200mくらいはあるので、瀬戸沢沢口と熊野神社が大きく移動していないことが前提となるが、この伝承の「時代は定かでないが中世のころ」というのは誤りだろう。山の地形から、沢自体の集落への出口は移動していそうにない。沢口が治水により時代を下るにつれて北に移動し、村は徳川時代に山際を南に拡大していったと考える方が現況に近いのではないか。伝承だけを見ると村が移動したかに受け止められるが、伝承は時に様々な時代の出来事を、伝承者の「むかし」・「大むかし」といった無限の時系列で伝えるので、すべてが同時代に起こったかのように思えることはある。伝えるべきことを印象深くして語るという神話的伝承技術であり、神武東征神話やヤマトタケル神話などでも、多くの事件を一人の神の事績にまとめることはおなじみだ。むやみに編年をつつくべきところではないとは思いつつ、次にも時系列のマジックのような伝承をあげる。
鴇巣村の形成由来には、もう一つのさらに古い時代と思われるものがある。南に1㎞ほどさかのぼって、伊南川を挟んだ山口村の端村、台集落に面した鳥井戸橋の西山側にある、「ミズバヤシ」について、『山の散歩道』(1994)解説が伝承を紹介している。
「大昔は御代の沢口に三戸だけ家があり、鴇巣区揺籃の地であり今でも僅かばかりの田がある。」
ミズバヤシは多くの村にある水源地の地名で、伐採などが禁じられ保護されていた。その簡潔、的確な命名に感心する地名の代表格だ。
三戸という規模からは村になる以前の姿に思われる。西側の山は急な段丘崖で、こちらは「大昔」とされている(困)。一方、ここに出てくる「御代の沢」については伊達政宗に滅ぼされた伊南久川城主の妻、御代所が「故郷に落ちのびようと西側の山づたいをかくれながら大橋大窪山をのぼり、瀬戸沢コエダ(越戸=峠の意)から峰づたいに鴇巣の沢に入られた。」として、「御代の沢」の由来としている。そして御代の休んだ清水の下からは㊀の家紋のある御影石がでてきたという。
この伝承によれば「御代の沢」の命名は伊達の会津侵攻(天正十七年1589)以前にはさかのぼれないので、「大昔」には別な沢名があっただろうがそれには触れていない。そして「御代の休んだ清水の下からは㊀の紋のある御影石」が出てくるのだが、この家紋は江戸時代(寛永期)に飢饉からの多数の欠落(逃散)があった際に、和泉田組から肝入(名主)として鴇巣に移り住んだ山内氏の家紋であり、御代の沢の命名とは時代が違うし、その御影石が何のための石なのかが伝えられていない。山内氏の権威を強調する付会と考えられる。「そして、御代の休んだ清水の下から・・・」というあたりに、別々の伝承をひとつながりに構成する妙がある。鴇巣の山内氏にはいくつか興味深いことがあるのだが、後々触れることになるだろうからここでは立ち入らない。
現在も山内氏の祀る天神社の社・家紋が彫られている
御代の沢口にあった三戸の村、御代の沢由来、山内家紋の御影石の三題噺の伝承に連続性はなく、伊達侵攻を中において前後50年かそれ以上のことがらを(もっとも御代様の伝承は以仁王伝説にも似ていて付会だと思われる)一つの物語のように紡いでいく。古い文書の「御代の沢」は「見台」、「三台」とも書かれていることからは、中世(戦国期?)以来の物見台としての「見台の沢」が妥当性をもつように思う。そう考えて地図を見ると、対岸山口山の城・宮床愛宕山との角度と距離も適当だ。ミデーノサー沢口の三戸の家が物見台(のろし台)と関連していくと妄想している。しかし、そこが村の「揺籃の地」という伝承に依って考える時、別な疑問もある。この一帯の山際は険しい崖であることは「欠の上」・「欠の下」の地名からも想像できるが、「欠の下」は折々本流の河床でもあった。等高線で見ても水田にしろ山畑にしろ、耕作目的で長く住むには適当とはいえない地形であり、「居平」や「森戸」(社処)など定住適地に多い地名のつきそうな場所ではない。住処としての安定が一番ではない場所が「村の揺籃の地」とは何を意味するのだろう?詮索したいのはやまやまだが、暴走しそうなので控えよう。
「ミデーノサー・ミズバヤシ・カケノウエ・ヒラバヤシ・フナクボと並んでこのあたり一帯、徳川時代に土砂崩れによる地すべりにて山全帯(ママ)が現南郷中学校あたりまでおしよせてきたと伝えられている。カケノウエあたりより昔のユッカマ(ヤカン)(註・鉄瓶)が出たという話がある。」(『山の散歩道』テンガヒラの解説)時代は徳川期の伝承ではあるものの、前述の定住不適地の指摘は的中してしまった(笑)。
これらの地名一帯、7~800mの幅のある地名の一帯が山津波の状況で、しかも後にカケノウエからユッカマ(湯釜=鉄瓶)が出たと伝わるというのは異常事態ではないだろうか?この伝承の二つのこと(山津波と鉄瓶発掘)に連続性があるとしたら、押し寄せた土砂に運ばれたユッカマはどこから来たものだろうか、徳川時代の山津波以前にカケノウエの山中にユッカマを使った人が暮らしていた可能性としては、焼き畑の出作り小屋などが考えられるだろうが、前出のミダイとの関係や、さらに峰づたいの交通路などにも広がる、妄想をかきたてる伝承だ。(鴇巣2へつづく)



