自分のしていることは自身には至急必要なことなのだが、残念ながら一般的には不要不急の最たるものだろうという自覚がある。最近やっとコロナ対策の外出自粛が緩和されたので、見たかった鴇巣のいくつかの場所に行ってみた。御蔵入三十三観音の二十九番、松誉堂は建物が見えているのに入口がわからず通りをウロウロして、近くで草取りをしていたお婆さんに尋ねたが、地図を示してマツヨ堂と言っても「そだなは知らねえな」と困惑している。あの建物だと思うがどこから入るのかと指さしたら、「ああ、あれは観音様だや。」と言って入口を教えてくれた。彼女は私が観音様を拝みに来たのだと思ったらしく「戸は外れっぺーからやってみろ」ともアドバイスしてくれた。地図で得た知識の無力さとフィールドワーク(聞き取り)の難しさを感じると同時に、信仰や伝承は入れ物に関係がないことは古代も今も同じなのだろうなと思った。見たい気持ちもあったが、信心深くもないし、さすがに戸を外す勇気はなかったので、元禄十一年入仏の准胝観音座像を拝見することはできず、集落の背後山際のお堂に向かってお参りした。観音堂の右手の瀬戸沢の向かいにお堂と墓地が見えていて、それが愛宕山の下にある延命地蔵堂。愛宕山は女人禁制だったため女人はこの地蔵堂までで愛宕様を参拝した。愛宕山には兜をつけて馬に乗った将軍地蔵が祀られているが、遠望を確かめるつもりの山頂には藪がひどくて上がれなかった。祭りの前しか草を刈らないそうだ。
ここでは私でも少し信心深くなりそうな出来事が起こった。地蔵堂にお参りして、古そうな墓石を探そうとして振り向いた時、ふつうは山を背にして村の方を向いているはずの墓石のいくつかが、地蔵堂を向いていたのだ(つまり私に)。あらためて眺めるとけっこうな数の墓石が地蔵堂を向いて同心円状に回っていた。その瞬間、その空間がとても神聖(仏ですが)に思えたのだった。
観音堂から見える地蔵堂その左手が愛宕山(ワタグサマ)
鴇巣村の中心に流れ出る瀬戸沢を2kmくらい(地図上での推量)さかのぼったあたりの両岸に、ヤマウバザー、コウクボ、ドウヤシキという地名がある。三つの地名が一連の記述になっている。
「昔地蔵堂があったところで今も屋敷跡があり、その沢向うには山姥沢というところがあり、山姥が住んでいて堂を守っていたという。すぐ隣にコウクボ=香窪という地名があり、山姥はそこからとった香をたいたという伝説あり。」ふつう山姥伝説と言えば妖怪的で、もう少し怖い物語を思い起すのだが、ここに登場する山姥は少し様子が違っている。奥山の堂屋敷で地蔵様を守りながら香をたく山姥の姿は、老婆の日常生活のままだろう。明治生まれの祖母の振舞いを思い出させる。何かにつけて仏様に水とごはんや餅をそなえ、生活に祈りが自然に入り込んでいた、「ほれ、○○様(註:神仏の縁日)だから、仏さまにあげもうしてこう。」と、金色の小さな椀を三つ載せた古びた漆塗りの御膳を手渡されて、仏壇に供え鉦を三度たたいた。もっと幼い頃には「チン・ゴン・ゴーしてこう。」とも言われていた。ちなみにコウクボの地名は、葉を乾燥させて粉にして点火すると良い香りの立つ桂の木のことを、この郷でコウノキということに由来する。コウクボの上にもカツラヒガタ(桂日向)という地名がある。この心優しい山姥が守った地蔵様が、前述の地蔵堂の延命地蔵だろうか、確かなことはわからないがそうだったら嬉しい。
鴇巣には大正時代に記録された『鴇巣郷土誌』(鴇巣同窓会編・大正四1915年)という貴重な記録がある。この巻頭言を記した安藤孝寛氏は、もしや安藤紫香氏の御父君だろうか。もしそうであれば、父子二代にわたって貴重な記録を伝えてもらえたことに更なる感謝を。同時に快くこの本を見る機会を与えていただいたH・S氏にも篤く感謝します。
熊野神社前をめぐる用水路
山際に沿って村をめぐっている
鴇巣の鎮守は熊野神社で祭神はイザナギ尊、イザナミ尊、速玉之男尊。明治までは熊野権現社。「永禄十年(1568)十一月山内摂津守後政の弟、山内俊之ここに住して剣を収めて鎮守となしたと言い伝えられる。その後記録なく山内家に伝わる旧記により云々(寛文五年1665)」(『南郷村郷土誌資料5』)(云々のところは現在地にあったという記録・下線筆者)。ここで「鴇巣1」で触れた山内氏について、その来歴について少し詳しく資料を紹介する。前出の『鴇巣郷土誌』緒言に曰く、「寛永十八、九年大凶歳の砌、伊南郷二百餘戸他郷へ流轉の際、名主馬場氏自ら当区十餘戸を率い越国(新潟県)へ走りたるを以て、主宰者を和泉田に寄食中の山内氏を寛永二十年(1643)名主に迎え、以来久しく同家肝煎の下に年所を経たり。」(句読点と()補足)この後半には、流轉した元名主の馬場氏が数年後に戻ってきたが、すでに山内氏が入っていたため下山村に住んだと続く。実際にこの時期の飢饉は酷烈だった記録がある。これに基けば山内氏が鴇巣の鎮守を永禄十年に祀ることはできないことになる。そのあたりに含みを持たせて「その後記録なく」という一言を添えているのだろう。寛文五年(1665)の山内氏の旧記のほうは時代的に整合する。
だが私にとって問題なのは、なぜ山内氏が肝煎に迎えられたのかという点だ。「和泉田に寄食中」という山内氏となじみがあったのか、その立場もわからないが、馬場氏が去った翌年に「主宰者」として迎えなくてはならない理由は何か?一族を率いて越後へ去った馬場氏が鴇巣でしていた生業は、山内氏でなくては引き継げないものだったのではなかったか。そして勧請の年代は付会だとしても、熊野大権現を鎮守としたという山内氏が奉納したのが剣であることは、それが何であったか示しているのではないか。素人考えでは稲作主体の農民の名主が剣を納めるとは考えにくい。
伊北郷の横田山内氏は鎌倉幕府の御家人として頼朝の奥州征伐で功を為し、会津四家の一つとして伊北郷の地頭となっていくが、山内氏は鎌倉、蘆名氏は三浦半島の三浦氏、長沼氏、河原田氏は下野小山(結城)氏、とすべて産鉄に深くかかわる。奥州征伐後の会津にこれらの氏族が配置され統治していく裏付けは、鉄と武器、武具の自給だったのではないか。採鉱・製鉄・鍛冶とその使用にも長けている者たちだからこそ、この時代の会津を治めることができた。山内(山ノ内)の名が、たたらの一党が自らの村を呼ぶ「サンナイ」であることは偶然ではない。幕府にとっても、領地と役職を与えておけば、自領を守ることができるうえ、うまく治まれば生産した武器や武具・馬具・農具・鉄製建築材・原料鉄などを幕府に吸い上げることもでき、一石二鳥以上の願ってもないこととなる。中世の武士団は非戦時には一般民と同じように働かなければならない。金山町横田に城を構えた山内氏の非戦時の生業は産鉄と鍛冶ではなかったか。
越後へ逃げた鴇巣馬場氏が、出戻ってきて住んだという下山村には鉱山(鉄か金?)があり、南郷で唯一のカナヤマビコの石碑も残る。これは鴇巣では元の生業ができないことから、別系統の産鉄鍛冶民のもとで働くことになったものと思われる。「宮床の田舎不動尊」(宮床1)などで取り上げた宮床村の馬場綱茂も、産鉄や鍛冶を業としていた可能性がある。それぞれが系列の違う産鉄・鍛冶民だろう。猪苗代湖畔に「赤井の荒脛巾神社、笹山の須佐乃男神社、東田面の金砂神社」があり、それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠とした古代製鉄集団と、萩生田和郎は述べているが(『青巌と高寺伝承』2002)、伊南伊北郷でもそのような鉱山ごとの棲み分けがあったと想像できる。
聖牛伝承の清浄池と権現様のお堂。池の底に鉧塊があったりして・・・
現在も山内氏の祀る清浄池と権現様にはかすかながら産鉄民の信仰の跡を残す伝承が残っている。曰く、「清浄池はかつて聖徳太子が乗ってきた牛がこの池にとどまって聖牛権現として祀られ、村人はここにお参りすることで病難をまぬかれた。殊にこの権現は眼病に効き、みたらし池の水で洗えば、目は清く病は治った。寛永の頃山崩れで池が埋まり、御尊体は鳥居峠の河鳥沼に移った。今も清水が湧いている。(要約)」この伝承は伊南村の稿に、「小塩の焼け焦げやくっ様」で扱った鉱山師らしい「小塩の上の家」(有力者)の星宮が眼病を治すと有名になった伝承と同様の片目の鍛冶神のものだろう。只見町福井(旧称荒井村)に残る鎌倉権五郎の伝承と御霊神社の存在も、そこを領した山内氏の運んだものと思っている。(谷有二著『「モリ」地名と金属伝承』―続・日本山岳伝承の謎・未来社2000年)など参照。溶鋼の終盤でできる鉧(ケラ)塊は牛が伏せているような形になるらしく、たたらの設備が大型化した江戸時代には粉砕できないほどになることもあったらしい。そういった場合には「神にささげる」と称して放置せざるを得なかったという。中国山地にはそうしたものが散在する。日光二荒山中宮祠の「牛石」、会津柳津円蔵寺(虚空蔵様)の赤べこもそうではないかとひそかに思っている。タタラと神と牛は関係する。(「怖いから天神様」牛石の画像)
脱線とまではいかないまでもだいぶ飛躍してしまった。風呂敷がたためなくなりそうなので鴇巣に戻って次の疑問に移ろう。安藤紫香氏編『南郷村郷土誌資料』は一冊が100頁に満たないものだが、伝説・信仰・系図・方言などの古い形が事細かに調べられていて優れた資料だ。その後作られた『南郷村史』には入れられなかった情報も多い。特に4~7が「農山村における信仰」にあてられ、その6に「氏神より小社になった神社」という興味深い項目がある。鴇巣の鎮守は熊野神社以前は若宮八幡宮だったという。
「(略)現在は熊野神社境内に移宮したるも昭和三十六年前は、字宮の上857に祭祀しあり。明治維新後まで周囲に土提をめぐらし堰堀をへだてて、水神社と相対し、高潤なる地内に、森々たる杉の大木は神さびて鎮守社の威あり(後略)」 旧社号若宮八幡宮、祭神:大雀命。昭和三十六年熊野神社に合祀。
略した後の部分には鴇巣の由来となった鴇の営巣がこの社木の大杉だったことが記されている。この記述からは鎮守を熊野大権現としてからも、若宮八幡宮は長く元鎮守社の威風を保っていた様子がうかがえる。
同列に 神明神社・字宮の上871 旧神号 神宮神明宮 祭神:天照大神 明治九年若宮八幡神社に移宮、昭和三十六年熊野神社に移宮
同じく 八王子神社 愛宕山下字下モ河原 祭神:天穂日命・天津彦根命・他六柱 明治九年移宮、昭和三十六年熊野神社に移宮
小高い山を削り取って中学校となっているあたりは、村を見下ろす高台で、鎮守の位置として普通のところにある。熊野神社はその麓、字宮の上879村寄りの村と同じ高さにある。現在神社は熊野神社だけになり、他の社はほとんどがここに集められている。
今も沢の出口に残る馬頭観音碑
若宮八幡宮は勧請も由緒も「詳らかならず」だが、これを鎮守としていたのは馬場氏が「主宰者」の時代ということだろう。祭神のオオサザキはその父の応神天皇が八幡宮に祀られることから若宮を冠している。八幡宮は戦の神として鎌倉に勧請されているが、本来は弓矢の神、ひいては金属製の武器の神であり、総本社の宇佐神宮の八幡神は鍛冶翁の姿で現れた。鎌倉が本貫の山内氏だが、その祖先が平安末期の平治の乱で頼朝に敵対したことで処刑されそうになり、鎌倉の領地を永遠に取り上げられた経緯がある。許されてその後も御家人として仕えるが、その後頼朝が幕府を開き鶴ケ岡八幡宮を鎌倉に勧請する。祖先の地を占めている八幡宮を祀ることを子孫として嫌ったか?熊野大権現は鎌倉に幕府が来る前から山内氏の信仰した神だったのかも知れない。神明宮の旧神号 神宮神明宮というのは伊勢神宮ということだろうがよくわからない。八王子神社も熊野系だがこれは本来村の北端にあり、森氏、猪股氏、酒井氏のうちの二家の産土神ということだ。
『新編会津風土記』には鴇巣の神社として天神社もあげている。若宮八幡宮の相殿社となっているが、これが「鴇巣1」に写真を付けた㊀の紋がある石祠の天神だろうか。採鉱・産鉄・鍛冶民が祀る天神だとすれば、学問の神ではない、大怨霊の力による烈しい雷神だ。(鴇巣3につづく)




