古代妄想 伝承 地名 歴史 -7ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

『里の散歩道』(1997年刊)鴇巣村のオキノハラ(沖ノ原)の解説に「一帯は宅地、墓地、畑地とがあり古昔よりあまり変わらないという。墓地をカミビュウス・シモビュウスと呼んでいた。」とある。

『檜枝岐村史』(2006年刊)の方言の章に墓地をビョウショと言っている。舘岩村星文吉氏編集の『郷土史』(1960年刊)には、精舎村で昭和23年頃の道路開削時に人骨や古銭が出て、その付近の崖下に「ビョウスの下」と称えられていた低地があったので「そこが墓所であったろうと今になって察せられる。ビョウスとは廟所の転訛したものだろうと云ふ。」との記事を残している。「廟所」ビョウショ→ビョウス→ビュウス。墓地を「廟所」と言っていた時代の記憶が残された地名らしいが、発音が檜枝岐に正確に残っていて、精舎村ではショがスに変わり、鴇巣ではビョウがビュウに変わる。変化の過程が興味深い。解ってしまえばどうということもないが「ビュウス」だけが現れた時は困った。友人の示唆に感謝。これはいつ頃だろうか?前出の星文吉氏は「墓所を定めて石碑を建てたのは農民では元和時代から・・」(元和は1615~1623)とも言っており、「廟所」はそれ以前の、地域で地位と力を持った人の墓所だろうと思われる。近世より昔に、水田耕作をせず焼畑を生業とした人々には、数年で開墾と移動を繰り返すのが一般的で、家財も家も最小限で、本宅のない出作り小屋で暮らすようなものだったようだ。そのような時代には屋敷墓も考えにくいし、埋葬や墓については不明な点が多い。星氏も「それ以前はどうしていたものか」と匙を投げている部分だ。

 

熊野神社にある地固めの石。櫓から吊り落として使う

 

この「廟所」地名についてもう一つ、鴇巣オキノハラの「上ビュウス、下ビュウス」は現在は堤防によって守られているが、村の上手(南側入り口)の伊南川べりにあり、地名がオキノハラ(沖ノ原)というごとく、伊南川が増水したり流路を変えると被害の出る場所にある。精舎村の「ビョウスの下」は、村との距離感は不明ながら、道路工事現場の崖下であることから、墓の出た(ビョウス)は舘岩川の河岸段丘上になる。桧枝岐村ではビョウショ自体は墓地を指す名詞であり地名ではないが、河岸段丘上(現国道)に墓所が並んでいる。村と川の間に「廟所」がある立地であり、祖先の霊の力を借りて水害を防ごうとする「川除け墓」の考え方が「廟所」の時代にすでに見られ、むしろ族長的な人物の廟所としてある程度の規模の土盛り(すでに古墳?)をすることで墓に堤防の役割を与えたことが、川除け墓の発想の始めにあるのでは、と想像をたくましくすることもできる。鴇巣のビュウスが上と下がついて川に沿った長い地点をさしているらしいのも妄想を助ける。廟所が転訛したビョウス、ビュウスなどの地名は一個の石碑を立てる「墓」が庶民にいきわたる前の村落の様子を想像する足掛かりになるだろうか。(鴇巣終わり)

 

一年四か月ご無沙汰してしまいました。また少しづつですが伊南川を下っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。