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古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

前回までは中世に河原田氏の治めていた伊南郷を進んできたが、今回の界村からは伊北郷となり、会津山内氏領となる。紛らわしいのは、伊南川の南は和泉田までが河原田氏領となっていて、界村から対岸十数キロは領主が違う。田島の長沼氏と河原田氏に較べれば、伊南川沿いの地域は大きな紛争は無く、姻戚関係も築かれていたのでうまく融合しているようだ。近世行政上は鴇巣までが古町組、南岸和泉田から、北岸界からが和泉田組として現在の只見町の東南部と同地域になっていた。

界村の本村は伊南川と鹿水川(カナミズガワ)が造った河岸段丘上に糸沢を中心に広がり、虻の宮は鹿水川を北側に渡った川の合流点に作られた界村の端村となっている。村の南はホイトイワと呼ばれる(宮床からの呼び方で界では使わない)ヘツリ(岪)をへだてて伊南郷の宮床村と接し、岩下を通る現国道ではなく、岩上の牛首峠を越えて宮床村発祥と伝わる現在安照寺のあるあたりに通じる。また鹿水川の来る東側は高清水、鳥居峠をへて昭和村中津川(現在は新鳥居峠で大芦へ)へと続き、会津盆地へ行くには近いため重要な街道だった。村の鎮守はオオヤマツミノカミを祀る三島神社。山神はどの集落でも祀られるが、三島神社として祀るのは珍しい。何らかのいわれがあるように思うが資料はない。『南郷村郷土誌資料5』に安藤紫香氏も「延宝三年に三島神社と山神を併せて祀る、三島神社と称しているが、山神を祀るようになっている。」と冷淡だ。前記事(「ぁ天孫プリーズ?」)で触れた、この谷の神社の多くが勧請を延宝三年(1675)としていることについては、「延宝三年案件」でもあり、その時代の神社合祀の動静の中に三島神社と大山祇神を勧請した理由が埋もれていると思われる。

 

岪(へつり)地形

 界の本村が段丘上の山の端に広がっているのに対して、段丘を下りて鹿水川を渡った所が端村の虻の宮だが、ここには現在は堤防があるものの、河床からそれほど高くない。宮床から続く本村の段丘下に広がる水田地帯(現在は住居もある)は大きく、この平地が伊南川の暴れた名残だと思うと、つくづく感嘆する。旧河床とほぼ同じ高さの鹿水沢河口付近が虻の宮の集落で、伊南川と合流する堤防で仕切られた地帯には、河口に舟場、堤防に沿って上河原,中河原、下河原、向河原などの字が残る。現国道289号線になっている下河原の解説には「河川改修前は鹿水川が国道と農道のあたりを通り深沢川に合流していた。昭和初期頃は原野であり、シモッパラなどと呼ばれ、住居もなかった(略)」(『里の散歩道』)とある。この河川改修は戦後の事と思われるので、昭和中期までは鹿水川は西隣片貝村の深沢川(ミサワガワ)に合流していて、鹿島神社と明神ヶ嶽の間を流れていたことになる。

 

虻の宮の地名はここにある鹿島神社の別名がそのまま地名となったものだが、これがわからない。鹿島神社のある界村はその名の通り伊北郷の南端の村で、東は長沼領と南は河原田領と接するので、隣の領との争いがあれば危険な地域だ。伊南郷の郷社、一の宮の宮沢一の宮神社(香取神社)は領主河原田氏の居城の足元にある。長沼氏も牛頭天王を居城鎮護の神として足下に祀っている。虻の宮は山内氏が居た金山町横田から30キロほども離れている。山内氏の居た横田の鎮守は伊夜彦神社(新潟県の弥彦神社が本社)のようだが、山内氏が祀ったかどうかはわからない。いずれにしても領土境の界村の、そのまた端村に伊北郷の郷社一の宮とされる神社があるという謎が一つ。もう一つは「アブノミヤ」という地名そのものの理由である。正確には鹿島神社を「虻の宮」と呼んだ理由である。

 

安藤紫香氏は「天養元年常陸国鹿島神宮の御神霊が[虻]に乗って来臨され、この地に鎮座されて・・・」という説と「源義明と云う者、常陸国鹿島神宮より御神霊を奉遷して鹿水川の近傍へ祭祀し、天養元年現在地へ祀った」という二つの説をあげているが、「いずれにしても虻の宮と称した。」(前掲書)と、それ以上は踏み込まない。

鹿なら鹿島神宮の使いとしての役割を今も伝えている。カナミズガワもあえて鹿の字を使っているのは鹿島神社の文字からだと思われる。(『新編会津風土記』は鹿野水澤=カノミズザワとしているが、鹿をカナとは読まないだろうという老婆心か。)伝承には虻から神が顕現した様子や、関係した人名も神の言葉もない、地名に付会した由来譚らしさが色濃いが、類話があれば地域的な繋がりがわかるかもしれないので鹿島神宮を中心に春日大社なども探して見たが見つけられなかった。二つめの伝承には、少なくとも源義明という人名と、初めに祀ったのは鹿水川の近傍という情報がある。源義明は平安時代後期に実在したが、鹿島神社をこの地に奉斎したという事実は無さそうだ。12世紀初め(?~1109)におそらくは比較的若くして没している義明と、天養元年(1144)現在地に鎮座したという鹿島神社の時間差を埋めるために、はじめは川の近傍に祀ったという部分が挿入されたように思われる。しかし源義明とその年代は疑わしいとして、「はじめは川の近傍に祀った」ということは大いにあり得るだろう。村に改名があったような伝承は無いので、宮名が村名の起こりになっていることを前提として考えれば、住人が村名を必要とした時点で、すでに何らかの虻の宮が形を成していたことが窺える。初めから鹿島大明神が鎮座したのであれば宮を虻の宮とする必要はない。

 

虻の宮の鹿島神社の神徳は「旱魃で諸山川に祈っても験なきときは、この社及び二軒在家(村名)の若宮八幡および梁取村観音堂の境内に集まり、祭礼の時に獅子踊りを奉納しますと祈誓すれば必ず応え有り」(『新編会津風土記』訳)という、伊南川の谷では霊験あらたかな雨乞いの神として知られていた水神だった。集落の北にタケノヤマ(嶽ノ山)と呼ばれて親しまれている「明神ヶ嶽」は、集落との比高差250mほどもあり、平坦な水田地帯から屹立する岩山で、中腹に雷電社と愛宕社を祀っている。現在、鹿水川はこのタケノヤマの南山裾を流れて伊南川に合する。しかし、以前は前述のように鹿水川は明神ヶ嶽を南から西に巻くように流れていたのであり、融雪期や台風などで伊南川が増水すれば、河口を伊南川本流にせきとめられた鹿水川が水位を上げ、明神ヶ嶽に沿って溢れ出たことが容易に想像できる。片貝との境に近い水田地帯のタケノキシ(嶽ノ岸か)という場所は「大湿田地帯で、(耕地)整理前は田下駄を使用しなければ入れなかった。」(『山の散歩道』)とあり、水田になる前は沼地の様なところだった。また集落背後の鹿水川の右岸にはハカノイリ(墓の入=墓地の奥の意)があるが、ここでは集落の墓域が伊南川ではなく鹿水川に対しての「川除け墓」の位置にあるのかも知れない。この住民にとって、息災と豊穣の両面から力のある水神は不可欠だったろう。

鹿水川が集落背後を流れていたことから見ると、集落は往昔押し出された岩や土砂が堆積してできた中洲のような地形としてとらえられ、その下流の突端が鹿島神社の鎮座地となる。集落と鹿島神社は数メートルの比高があり、鹿水川や伊南川の増水時にも、広い氾濫原(湿原)の水流を割って浮かぶ馬の背状の島のようになっている。前面は伊南川本流、背後は明神ヶ嶽の裾を鹿水川から溢れた水が流れて、濁流に浮かぶ中州の突端は水神が鎮座するのによく似合う。

 

タケノヤマのイメージ(このところ帰れないので代用・・謝)

 

阿武隈川は福島県の中央部を流れて宮城県で太平洋にそそぐ長い川だが、『角川地名大辞典』によれば、表記は様々あり大熊、逢隈、合曲とも書きオオクマとも言ったとある。比較的なだらかな福島県中央部を大(ヲフ)きく曲がりくねって(クマ)流れているという意味(隈・曲)のようだ。昔の表記なら、大は「オオ」でなく「ヲフ」とか「アフ」になる。アブクマをオオクマとも言ったことが説明している。濁音の表記は後世まで無いので「アフノミヤ」は「虻の宮」になる。伊南川に限らず、地域を流れる最大の川を地域民は「大川」と呼ぶ。私自身がそうだった。伊南川に魚突きに行くことを祖母に伝える時には「オーガア(大川)に行く。」と言った。沢は複数あるので固有名詞だが大川は一つしかない。伊南川は大川だった。おそらく現在でも大川の呼称は使われ続けている。会津若松の大川も、それが若松周辺の大川だからで、そのため上流と下流は阿賀川だ。「虻の宮」が「大の宮」の可能性はないだろうか。大川と合して一帯を更なる大川にする地域に祀られた水神がアブノミヤと呼ばれたという推論だが、「大川の宮」とした場合には「川」が外れた理由を考えなくてはならない。また先に述べた「住人が村名を必要とした時点」を考えると時差が生じる。

 

もう一つの仮説としては「合の宮」が考えられる。合曲=アブクマを取った場合である。カナ表記ならこれもアフノミヤとなる。鹿水川と伊南川の合流地は両河川が「アフ」ところ。アブノミヤは初めタケノヤマの南麓の鹿水川の流路がタケノヤマを巻く近傍に、水流が届きにくい川岸を選んで祀られた石か石祠だったろう。やがて土砂による堆積地が大きくなるとともに高台が増え、集落も村らしくなり(これも神の霊験)、鎮守の水神はより水面との比高が大きい現在地に移されたのではなかろうか。大水の際、濁流に浮かぶ中州に村を見守るように鎮座する宮は、霊験の高い水神の顕現として崇敬された、と妄想してみる。地名発祥の時からアブノミヤであるためにはこのほうが妥当かも知れない。『南郷村郷土誌資料5』の中に、「旧大宮(村)の人達は昭和二十一年までは氏子中として、一の宮のお札が戸ごとに配られて、お礼の代金を具申してきた」との記述があり、(大宮村は富田村との合併で南郷村となる。界は富田村)鹿島神社への信仰は以前から行政区域にかかわらず農耕の水神として崇敬されていたことを示している。

 

界・虻の宮 1/25000より

 

他にも強力な水神の性格から、祀られていたのは明神ヶ嶽の雷電神社と関係する蛇神で、どこかの時点で虻と蛇の誤写があったかなどとも考えたが、特に蛇神の祭りも伝承もなく、比較検討する材料もないので諦めた。

 

さて、茨城(鹿島神宮)でも奈良(春日大社)でもない、阿武隈川から虻を見つけたところで、アブノミヤの命名についての謎はひとまず落着したことにして、領地のはずれに伊北郷の郷社がある理由を考えてみる。伝承も祭りも水神のもので、奉納される踊りは五穀豊穣のものなのに、祀られているのが最強の武神・鹿島神という齟齬について。

鹿島神社の祭神であるタケミカヅチは、『古事記』では、出雲の渚に逆さに突き立てた剣の切っ先に胡坐をかき、大国主神に国譲りを迫った武神。剣、雷でもあるので水(河)に無関係ではないが、領主の膝元でもない場所で武神を押し出すのはやや場違いな気はする。しかし他にも鹿島神社を祀る村は多いので、式内社を考えるようなタケミカヅチの属性云々ではなく、常陸国一の宮の権威ある神として祀られたとしておきたい。

 

大きな争いは無かった伊南・伊北郷だが、ふと河原田氏と山内氏の信仰行政上?の対抗意識のようなものを思うのは不遜なことだろうか。伊南郷の一の宮である香取神社は明治からの呼称で、以前は単に一宮神社と称した。上野国一の宮貫前(ヌキサキ)神社を勧請したとされている。(前記事「くる神・いた神・祀る人」参照)祭神はフツヌシノオオカミ、伊南郷に勧請された時期は弘安二年(1279)と伝わる。別名をフツノミタマといい、常陸国一の宮の神だが、ここも古くは尾白山を神とした水神信仰の色が濃い。またフツノミタマは鹿島神宮の祭神タケミカヅチの佩く剣の名でもある。虻の宮鹿島神社は源義明によって奉斎され、鎮座が天養元年。政変や戦争にも止まることなく、承応三年(1654)から昭和二十九年(1954)まで、二十年ごとの式年遷宮を行うという誇らしい祭祀を持っている。20年おきに300年間続けられた式年遷宮には感嘆するしかないが、それが大変な事業であるだけに、逆に天養元年(1144)からの410年間についての記録や伝承の無さに不自然さを感じなくもない。

山内氏の本拠である横田の伊夜彦神社が山内氏による奉斎かは不詳だが、因みにこちらの祭神は天香山命(アメノカゴヤマ)で、神武東征の時、熊野の神による危機をフツノミタマの剣によって救ったタカクラジ(高倉下)の神名である。高倉下は夢のお告げにより天からフツノミタマを受取り、それを神武の元へ届ける役割で、佩剣→高倉下の関係だが、タケミカヅチをこれに加えると、武神(タケミカヅチ)→佩剣(フツノミタマ)→高倉下(アメノカゴヤマ)という配列が可能になる。庶民の水神信仰には手を付けず、鎮座の時代と祭神の格で優位に立つといえなくもない。とりとめのない妄想がどんどん不遜な方向へと向かってしまった。地名の考察に戻らなくては。(界・虻の宮2へつづく)