界村は鹿水川(カナミズガワ)を遡ると大沼郡昭和村中津川を経て会津盆地へ出るための要路だったことは触れたが、山口から駒止峠を越える道が整備されて街道化するまでは伊南村の多々石から田島に抜ける戸板峠とともに最も重要な街道だった。会津若松城下や出羽三山へ向かうにはこの道が使われた。会津戦争(戊辰戦争・慶応四年1868)の際、田島から昭和村を経て官軍が若松へ向かったが、『山の散歩道』の界の地名解説には、その時に起こった一つの事件が浮かび上がる。鹿水川流域(界~鳥居峠間)の地名解説を時系列に並べてみる。(番号は地図に落とし込まれた地点のもの)
#21 シシブクロザー(獅子袋沢) ・「大芦(昭和村)の戦に敗れた官軍兵五名が、#20琵琶転(ビワテン・ビワコロバシ)まで逃れてきたところ、この銃座に待ち受けた農兵の銃撃を受け退却した。」
#32 イリシンデン(入新田)別名(梨の木新田) ・「ビワテンで銃撃を受け#70沼ノ沢(ヌマンサー)に逃げ込んだ官軍の一人が、梨の木で首つりをはかった。当時官軍の仕返しを恐れた村人が、コッソリとこの付近に埋葬したと伝えられる。」
#116 カングンザー(官軍沢) ・「#80・81中の沢・デトの沢の分岐点附近で自決した四名の白骨化した死体が明治三年に発見され、田島役所の許可を受け上の山の墓所に埋葬し、安照寺に戒名が保管され永代供養されている。」
#9 トウカバヤシ(稲荷林) ・河原田家の墓所があり(中略)稲荷様が祀ってある。この下に官軍四名の無縁仏の墓所がある。
官軍事件に関係する地名が黄、移動ルートが青、左端が界村 右上が鳥居峠
大芦から鳥居峠を下って鹿水川に沿って敗走してきた官軍兵が、村近くまで来たところで、警戒して待ち構えていた村人に銃撃され、もと来た方へ鹿水川に沿って戻っていく。入新田で一人が縊死(負傷していたか?)、残り四名はさらに鳥居峠の方へさかのぼるが、鳥居峠へ向かう沢の分岐まで戻った所で、峠ではない方へと一本沢筋をそれた山中で自決したらしい。道を間違えたか、あるいは敗走した地点へは戻るに戻れず、進退窮まった地点での選択だった可能性もあるだろう。その過程は白虎隊の集団自決の悲話を彷彿させる。せめてもの慰めは、亡くなった全員が界村の人々によって弔われたことだろう。当時の界村の住民にとって会津戦争などは、維新という理解不可能の政変によって、理不尽に一方的に攻め込まれた戦であり、その先兵である官軍に対する反感が無いわけはないが、理不尽に振り回されるという意味で、遠路を駆り立てられ、故郷へ戻ることができずに死んでいった、官軍兵達への同情と共感もあったのだろう。解説者は昭和63年(1988)の調査時の集落の古老的な人物なので、子供の頃に維新時の大事件を祖父母から繰り返し聞かされたのだろうか。解説者がこの事件を強い印象で記憶していたことが窺える。まるで講談の一節を聞いているような、これらの説話的な地名解説出会うと嬉しくなってくる。『記・紀・風土記』の中に登場する神と神、神と人との物語は、この様な語りごと、あるいは歌謡として数多の「稗田阿礼(ヒエダノアレ)」(『古事記』の暗誦者)によって語り継がれてきたものだったはずで、現代まで地域に残る伝承や昔話は、多かれ少なかれそれらの系譜の末にあると、あらためて感じさせてくれる。地名はそれだけで意味が通じることは第一義だが、そこに強烈な物語を付加することで、より印象深いものとなって語り継がれるという側面もある。地名付会譚の多くがまだ現役なのは日々耳にすることだし、わが妄想もそれらによって触発されている。(多くが観光資源に偏っているのは善し悪しだけれど)
地名のシシブクロザーは猟場で、シシはクラジシ(カモシカ)。勢子がシシを追い込み、待ち受けている射手が仕留めるのに都合の良い地形がフクロ(袋)だろう。ビワテンは琵琶転と表記し、ビャッコロバシ(琵琶転橋)とも言うとのこと。柳津町に琵琶首、猪苗代町に琵琶沢などあちこちにあるので、地形を表現した地名に思われる。尾根を越える地形に見られた「ウシクビ」地名(前記事「運ばれた牛首」参照)のように、地形を楽器の琵琶の胴体に見立てて用いる古代の地名用語なのだろうか。琵琶首は沢の屈曲を琵琶の首に見立てたものらしいが、琵琶転の場合どうなのか?「コロバシ」に「転橋」を宛てていることで、「バシ」が「転」にも「橋」にもかかっていて判断が難しい。「転」だけでもコロバシと読めるし、ビワテンともいうので、橋を示すならコロバシバシかビワテンバシにならないとおかしい。旅の琵琶法師が滑落死したというような付会譚を見たような気がするが、確認できない。
カングンザーは事件後の地名なので、それ以前の地名には触れられていないのは惜しいが、この語りごと的地名解説が無ければ、由来不明の地名になってしまい「カンゴロウの開拓した畑があったか」のようなことにならないとも限らない。再々ながら『山の散歩道』のありがたさを感じる。
界村の特徴のひとつに広大な山域をもつことがある。北は鳥居峠で昭和村境まで、東と南は鹿水川に沿って、新鳥居峠を経て黒岩山の断崖の裏側、おそらく鹿水川の源流までで、それは宮床村と山口村の東側を回り込んで台(山口村の端村)の大石沢源流部の東にまで届いている。広大な山域を持つ理由が、地形的な合理性からなのか、谷に定着した時期によるのか、山内氏領と河原田領の勢力範囲の反映なのか、あるいは鹿水川筋を経由して通じる地域との関連なのか、水田農耕以前の暮らしを考えるうえで興味深い所なのだが、力が及ばない。
#91キジミチ(木地道)、#98トウバリザー(現在の表記は東張沢だが、本来は通り場沢=トウリバザーかという)は現在新鳥居峠が通じる大芦へ向かう沢筋で#98の解説は「木地師が荒削りした木工品を背負ってこの沢を登り、大芦玉川の木地工場へ通る峠道だった。」とある。この二つの木地師の道は、両方とも昭和村玉川への近代の使用状況だが、尾根までのルートが違うようなので、時代に応じて幾筋もこの様な杣道があったのだろう。道があるから行くのではなく、用があるから道をつけるという時代なのだから。界は現在でも国道401号線と同289号線の交わる「三方口」だが、谷の外の世界へ向かっているという憧憬も幾分か含んだ語感のある(ないか?)「三方口」の呼称は、今や山口から田島へ抜ける駒戸峠の289号線にとって代わられた感がある。しかし鳥居峠を越えた昭和村は、大沼郡金山町(山内氏本拠)、河沼郡柳津町、会津盆地の大沼郡高田町、南会津郡田島町、そして界村など四方、五方にも通じているので、かつては伊南川の谷間の人々にとって、見たことのない世界への憧憬をつのらせる街道だったと思っている。むしろ尾根と中腹に主要道があった古代においては、そういう所の方が重要だろう。妄想的興味は尽きないが、伊南川筋を越後までという構想に従って、鳥居峠は越えずに伊南川に戻ろう。只見川に合して金山谷に向かえば、また昭和村に戻ることも必要になってくるだろうから。(3へつづく)
