古代妄想 伝承 地名 歴史 -4ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

界村の山域の広さから、『山の散歩道』では120ヶ所の地名があげられているのに対して、『里の散歩道』では約半数の65ヶ所で、これは各集落の全体的傾向ではあるが、それでも絶対数で目を引く。そして界村の地名は一目でそれとわかりやすい地名が多い。稗田阿礼に擬してしまった解説者の個性も手伝って、山村の暮らしぶりを見せてくれるので、それらを紹介してみよう。

 

この村には、清水や水源に関係する地名が多い、コワシミズ(強清水)、コワシミズザー(強清水沢)、オオシミズ(大清水)、ミズバヤシ(水林=水源)、タカシミズ(高清水)、シミズザー(清水沢)、ヨコシミズ(横清水)、イワジタシミズ(岩下清水)、ミヤシミズ(宮清水・はじめは草清水)、ハチゾウシミズ(八蔵清水)、ミズネザカ(水根坂)。

このうち強清水と強清水沢、八蔵清水と水根坂はそれぞれが関連している。八蔵父娘が吹雪に巻かれて動けなくなり、水根坂の裾一帯に湧き出る清水の温かさで凍死をまぬがれ、翌朝狩人に発見されて生還したことからそう呼ばれた。横手清水は干草を運び出す場所で、ここで牛馬と共に休憩した。高清水は山葵の群生地。大清水は度々の隣村との水争いによる土塁の跡などが残る。宮清水は村に湧く水で、高倉の宮以仁王が飲んで褒められたという伝承からの地名。清水以外にも、現在は観光温泉ホテルになっている所は、古くから湯が出るといわれてユンドコ(湯所)。最奥のミサー(味沢)は味の良い水で、大勢が山菜取りの道中で一服したという。山菜では前述の高清水は山葵、カクマザー・カクマヤチ(谷地)はコゴミ、クルミクボ(胡桃窪)、ブンドウザー(葡萄沢)・ブンドウクボ(葡萄窪)、オウレンザー(黄連沢=薬草)、狩猟では前出シシブクロザー(獅子袋沢)、オソバ(オソ=熊罠)、有用材ではカベトリバ(壁取場=粘土)、カヤバ(萱場)、カヤマキザー(萱巻沢)、ハギタテバ(山の口の集合場所)、ミネバリヤマ(オノオレカンバ)、エンジクボ(槐窪)、ホウノキザー(朴木沢)、アカマツザー(赤松沢)などがあり、他に警告を地名にしたオオナデ(大雪崩)、ヌカリ(湿地帯)、マムシザー(マムシ)、ケンサツ(険札)、難所のナナマガリ(七曲)、山の崩落面がドイシ(磊石)、崖山はハゲザー(禿沢・イリ、デト)鹿水川の上流から界本村と虻の宮に水を引く取水口が二ヶ所あり、それぞれセキバ(堰場)、引き込んだ用水の落口がヒウチバ(樋打場)などの暮らしに直結した地名が多い。

 

一方でキリノキザカという地名は、樹木の桐の木ではなく、「(山で伐った)薪を積んで置いた所を木置場坂(というので)、キンニョウキ坂と思われる。」{()内筆者補足}とあり、当時でもすでに分からなくなりつつあったことがわかる。別な場所でキンニュウザーがあり、こちらも薪を積んだところだろうと言っている。山口村にはキツンバ(木積場)があった。界村には「○○+場+地勢」という地名の作りが多く、発音が難しい独特の地名になるケースが見られる。界村の中央に流れ出る糸沢の解説にもこれが当てはまる一節がある。曰く「(糸沢は)鹿水川より用水路を引く以前には、部落の野菜洗いに利用され、ナーラバ川(菜洗場川)とも呼ばれた」。漢字表記があればわかるが、音からだけでは法印の呪文のように聞こえる。これも「菜洗い+場+川」という地名の作りになっている。「場」を挟んだ作りとして特徴的だ。モリド、ノシド、イヨド、マワット(舘岩村)、トリイド、マドウリド(伊南村)などのド、トは、村や川のある範囲をあらわすが、界村の「場」はもっと狭い作業(生活)地点をあらわしている。比較的新しい地名なのだろうか、傾向といえるかどうかわからないが、何か引き出せるだろうか。

 

界に高倉宮以仁王の伝承がある事はミヤシミズのところで触れたが、この村の「界」という命名にもそれは付会されている。「(界は)以前は井戸沢村と称した。高倉宮以仁王がお通りになった時、井戸沢村十郎左衛門宅に宿をとられた。この時、方向をお尋ねになられたので、井戸沢村を境に南を伊南・北を伊北と言いますとお答えした。その後村名を境村と改めた。」(『山の散歩道』界・虻の宮の紹介文より)

 

以仁王伝承は宮が没した治承四年(1180)の事なので、まだ平清盛は存命中で、頼朝は房総へ逃げているころ。この時期に山内領と河原田領の境があったとすれば、それは別な問題をはらんで来ると、意地悪く突っ込みたくもなる。以仁王はいいとして、ここで気がつくのは「井戸沢村の井戸沢十郎左衛門」だろう。井戸沢=イトザワで、糸沢なことは明らかだ。村名とそこから人名に移された井戸沢と糸沢の元はどちらか、また十郎左衛門の実在などはわからないが、糸沢は界村の暮らしの中心で、字糸沢には鎮守の山の神としての三嶋神社、稲荷、毘沙門堂、十王堂、延命地蔵尊などが集中している。村にも力があったようで、伝承での以仁王は井戸沢十郎左衛門宅で七日間も体を休めている。界村とその肝煎りであればもっともなことだと、地域の人々が頷けるような存在感のあったことが想像できるだろう。

 

忘れられた山の神?あまりに可愛らしいので登場(甲斐国)

 

十王堂では飯豊山講(成年男子の飯豊山参り)のため、ここで七日間のお籠り、水垢離などの潔斎生活が行われ、ミズゴリバ(水垢離場)の地名が残る。近世から地域の法印が界村の渡部信濃だったことも関係しているだろうが、密度の濃い信仰生活が行われていた。十王信仰はすでに失われて、十王面(水田)は由来不詳とされている。これは十王免で、十王を祀るために使われる水田のこと。宮床にも不動面(免)、他に会津盆地にも数多い。『南郷村誌資料7』(昭和42年1967)発行時点では、界の十王堂が「木造茅葺、間口5.9m、奥行き4.5m、現在、本尊エンマ様(50センチ)は壊れて無い、壊れた十王像あり」となっているので、最近まで十王信仰が残っていた形跡はある。これも神仏判然令(廃仏毀釈・明治元年)の仕業だろうか。法印が締め出され、祭祀が小正月やお盆の行事に吸収されて消えていったのだろうか。十王堂は今も残っている。

 

糸沢が村から出て段丘崖に向かう下流には、夏に馬に水を浴びせたウマアセビバ(馬浴場?)、さらに段丘を下って宮床沢との合流点近くにはツクロイバ(繕場)がある。村中の馬の爪を切り、歯茎に針を刺して塩を塗る場所で、伯楽(馬の専門家)が春秋二回やってきた。河原の砂溜まりにはオチタ(死んだとは言わないそうだ)馬のウマイケバ(馬埋葬場)がある。この僅か数百メートルの流域に、神仏と馬と人との生活史が豊かに詰まっている。高校への通学路として、毎日自転車やバイクで糸沢の上を行き来していた頃には思いもしなかった光景が広がっている。

馬繕い用具

 

このウマイケバの解説の中で、ウマイケバの砂溜まりの崖上を「オッキリ」と呼んでいる。地名だが解説には由来不詳とある。可能性として水の「押切」が考えられる。川除けの願いをこめて昔の段丘上に建てられた、押切観音の石像を別な地域で見たことがある。地域は違っても段丘上での村人の思いは共通だろう。

 

旧河床の段丘上にあった押切観音(馬頭)余計なものも・・・

 

わかりにくい地名としてはキャレジボウザカ、キャレジボウセキヒがある。キャレジ坊の名を冠した坂・石碑だが、何をあらわす名なのか見当がつかない。転訛だとしても元の言葉を思いつかない。どなたかキャレジを知りませんか?

旅の法印キャレジ坊が上田八幡社参詣途中、上田ママ坂で行き倒れ、以来そこをキャレジ坊坂と呼び、供養の石碑を作ったと伝わっている。言い伝えに脱落があるようで、「キャレジ」については旅の法印である事しかわからない。法印の行き倒れは赤根山沢にもあり、こちらは鳥居峠を越えてきた道心法印がここで倒れ、赤根山道心塚を建てて供養した。と伝わって、塚の名には残るが地名には影響していない。上田のママ坂なら、急斜面をいうママで珍しい地名ではないが、キャレジは永遠に分からないかもしれない。

 

この地方の特有の転訛ではヨウノワキ(岩の脇)、インニョハラ(入の原)、ボダゼイ(ボタ(丸太)背負い)、先述のキンニョウキザカ(木置き場坂)、ワタグサマ(愛宕様)などがある。各地にそういった地名はあるので、現地で耳に入れることは大事なことになるしそれが面白みでもある。もし地元の地名を拾う作業をしようと思う人がいたら、ぜひ使われている音でルビを宛てて頂きたい。役所の地図のカナがすでに標準語音になっていることで、その地名本来の理解に支障がある事は多い。(表記が難しいのは確かですがお願いします。)

 

宮床との境にあるホイトイワは、界側からは岪としてそれほど意識されていない。かつては岩の下には道が無かったからで、ヨウノワキ(岩の脇)と呼ばれている。村の中から登ってウシクビトウゲ(牛首峠)を越えて岩の後ろを通るのが街道だった。郷の境でもありここの六地蔵(幢)は下を通る道ができてからの道祖神的な役割か。牛首峠への入口は糸沢の落口あたりにあり、字上の山の雷電祠解説には「旅の安全を願って」と解されているが、道中安全の雷電神というのはあまり聞かない。勧請時の雷電神の役割はそうではない気がする。

峠のふもとに残るサロクヤシキ(佐六屋敷)。

「誰の家系か知る人はいないが以前より語り継がれている。佐六という人が住んでいた屋敷で、現在は畑となり、屋敷神稲荷様だけがひっそりと建っている。」

伊南郷と伊北郷の境となる峠のふもとに、屋敷神に稲荷を祀るにもかかわらず、系譜が一切不明というのは謎めいている。「サロク」が人名なのか職名なのかというようなことも含め、山内領の領境を監視するような役割を推定することはできそうだ。領境監視のために配置されて、近世に領境が無くなり、そこに住む役目を終えたと考えれば、家系が一切不明な事と消えた屋敷の説明はつく。・・イナリ神の謎は残るが。前記事「ナ・ニ・ヌ・ネ・ノの法則」宮床2参照

 

もう一つ、峠本体のウシクビは「銅山跡があり、牛首銅山と呼ばれた時代もあったという。」この解説も「むかしむかし・・・」の形でしかなく、サロクヤシキと関連があるとはいわれていないが、大正三年の『南会津郷土誌』では富田村界岩腋(ママ)で金・銀・銅の試掘願いが出されている。実際に試掘したかどうかは不明だが、銅山跡が残るくらいなら、そう古くないようなので、その時の跡かも知れない。同書に隣の大宮村宮床にも試掘願いは出されていて、山口との境の北原にも「銅採掘穴らしきもの」があったとの話を現地で聞いたことはある。

戦後も稼働した大宮鉱山、八総鉱山、近世の白峯銀山などの大鉱山の他にも、この谷には小規模な鉱山は多数あった。

 

渡部政吉氏が只見町の田子倉ダムの水底に沈んだ田子倉村の歴史を、切迫感をもってまとめている『会津田子倉の歴史』(昭和56年1981)に興味深い記事がある。田子倉村に稼働した鉱山についての近世の資料を拾い出してあり、銀を出した白沢鉱山について「このころの鉱山業は間歩の一つずつが独立した企業体で、経営するものが山師である。それらの企業体を総合して一山を経営するものが山主である。(中略)精錬の方法も決して規模は大きくなく家内工業的な手工業の範囲を出なかった云々」(間歩は鉱穴)と記して、零細な規模の山師の間歩の集合体が大鉱山となることを述べている。それはまた、一人の山師が山主も兼ねて一つの間歩を経営するだけの鉱山でも、近世までは成り立っていることがわかる。甲州の大金山だった黒川金山の採金も間歩ごとにマキ(一族)が請け負うという、田子倉と似たような方法だったようだ。黒川千軒と言われるほど殷賑を極めたと伝わり、武田信玄の財政を支えた。

 

金山・銀山といったとき、大鉱山の繫栄を知識として持っていて、ゴールドラッシュなどをイメージするのは、大多数の小鉱山ではかなり違うようで、山師や採鉱民はまるでそんな風ではない。上納金や経費を差し引いて山師の手にどれだけのものが残っただろう。一攫千金の望みなど初めからなく、なんとか普通の暮らしができれば上々、といった様子なのである。近世では採掘権は個人にはなく、採鉱、精錬によって得た鉱物の売り上げの一部は、契約によって土地を管理する村や役所に上納されるのだが、田子倉から越後山地の奥へと、雪解けの時期から険しい運搬路を作り、台風や崖崩れを乗り越えてやっと採鉱地にたどり着いた時には、積雪期になって稼働できず、村の肝煎り(この場合山主)に来季からの稼働を約して、越後へ帰るための路銀を借りた借用証文などを見ると、山師は豪雪地奥の鉱山での採掘を選ばざるを得ない状況にある、という事情があることに気附く。喜んで取りかかれるような条件とは思えない。田畑を持たず移動を常とする、専業山師の望んだ暮らしとはどんなものだったのだろうか。

 

ひとつ前の記事(界・虻の宮2)でカナミズガワ(鹿水川)の名が『新編会津風土記』にはカノミズガワ(鹿野水川)とされていることに触れた。そして一の宮鹿島神社があることから、「カ」に「鹿」の文字を宛てたのだろうとも書いた。「カ」については、それは妥当な線だろう。しかしそれだけでは正確とは言えない。界村は「カナ」に「鹿」をあてているからである。カノ(火野)は焼畑の地名で、この谷にも全国的にも多くある(狩野、神野、加納などの好字)ものだが、『新編』の書き換えにもかかわらず界では「カナミズ」で通している。仮にこの音に漢字表記をするなら、一般的には「金(銅・鉄)水」だろう。カナミズガワが「金水川」なら、佐六屋敷に残る稲荷神の石祠と、鹿島神社は繋がってくる。水神として信仰の篤かった「虻の宮」に、神剣を佩いた武神タケミカヅチの鹿島神社が勧請された理由が、「金水川」なら妄想できる。

山内氏はそのままサンナイ氏でもあり、製鉄神となった鎌倉権五郎などとともに幕府設置以前は鎌倉を根拠地としていた、鎌倉のサンナイ一族だ。

(註)サンナイ(山内)は踏鞴を操業する村の呼称。***

(界・虻の宮おわり)