「浜野」
前記事(06 怖いから天神様(浜野))で、浜野の地名について、ブログを読んでいただいている方から、浜野の「浜」は木材流送に関係するのではないかとの指摘をいただき、秋田にある浜という地名と由来を紹介していただきました。その後『伊南村史』民俗編の中に、「桧枝岐川・舘岩川流域から伐り出されたその木材は、伊南村浜野までバラで流され、浜野で一房(筏一組)が幅七尺、長さ七間と小さく組まれ、水量の多い八十八夜までには只見川まで流さなければならなかった。」という記述を見落としていたことを発見しました。まさにドンピシャのご指摘でした。山間部の「浜」地名について、不思議が一つ解消しました。(カッシーさん、ありがとうございます。併せて杜撰な調査をお詫びします。)
ここでは、今までの拙稿について、後から気がついたり、新たに知った事をくわえて考えたこと、どうも座りが悪いと思うようなことなどを、覚え書きとして加えて伊南村のまとめとしたい。
「大桃・双六地名」
最南西の大桃にある入双六、中双六、出戸双六について、前記事でゴロの音がゴロメキやドウメキと同じ擬音地名か、という自分の考察が、どうも不十分な気がしていたところ、「双六」という職種?が、平安時代から鎌倉時代にかけて存在していたことを知った。(『異形の王権』 網野善彦 平凡社ライブラリー中、「異形の風景」―摺衣と婆娑羅)
「放免」は、下級刑吏となった放免囚人で、検非違使の僕として探索、捕縛、拷問、獄守などの任に当たる者だそうで、「双六」民は、その放免との関連で記述される、共に「非人」とされる者たちである。杜撰な考察は、このように、たまたま読んでいてぶつかった記述によって頻繁に馬脚を現す(笑)。ウィキペディアで見てみると、双六は中国から伝来した時には、すでに宮中の遊戯として伝わったようだ。おそらく発生したころは卜占だっただろう。これが大桃の双六地名に関係するかは不明だが、調べてみると双六の地名自体は広範囲にある。
秋田県男鹿郡船川港双六、岩手県陸前高田市気仙町水上字双六、福島県伊達郡川俣町大字東福沢字双六山、栃木県芳賀郡芳賀町大字西高橋双六、岐阜県高山市双六川(上宝町)。
地形や地勢はその地を見ないとわからないが、「岩石の摂理が碁盤状であることによる(吉田東伍)か」(『地名用語語源辞典』)また、「動詞(勝)の語幹で「秀でる、抜きんでる」意から高所をいうか。」、「動詞(選)の語幹で「抜き取る」意から、ある種の「崩壊地形」を示すか」(同書)など様々ある。同書ではアイヌ地名のことには触れられていない。
大桃の双六地名は入、中、出戸とあり、連続した地帯を作っているところから沢筋(双六沢?)だと思うが、そうであれば吉田東伍博士のいう地勢からという可能性が高い。一方で、そのように地勢を形容して地名化したのが、どのような人達かという疑問が出てくる。大桃には高倉宮以仁王が上州沼田から尾瀬を越えてきて、ここで逗留した伝承があり、衰弱した供の小倉定信卿(オグラは木地系の名)がこの地に留まって大桃山滝岩寺を開いたというが、双六地名はこの貴種流離譚には付会されていない。
「碁盤状」の地勢を「双六」と形容するには、子供が遊ぶ絵双六ではなく、中世以前の碁盤状の双六盤を知っている必要がある。地名が定着するには、その名詞を村人が分かっていなければならないだろうから、宮中の遊戯からよりは博打からきているだろうが、仮にこの里人がよく博打をしていて、賭博用の双六盤も碁盤状のものだとしても、里人が専用の遊戯盤を必要とするような賭博をしただろうか。サイコロがあればできる、もっと簡単で一般的な博打は他にもいろいろあるだろう(たぶん)。
前出の「異形の風景」で取り上げられる双六の民は博徒で、本書では平安末に「非人」の表記が初出する文献(十一世紀初頭)の紹介につづいて、「摺衣の着用は、もはや放免のみならず、院の下部、諸司の従者にまで拡がり、祭りの時の庁下部―放免の衣裳も、過差の度を加えつつあった。そしてそれが博戯、双六や飛礫の輩と不可分の関係にあった」としている。鎌倉、室町時代には神人や遊行僧なども加えていく漂泊民でもある。双六の民をいつ頃まで辿れるのだろう、これは専門的すぎて追及しきれない。仮にこれを広義の漂泊民に数えるとすれば、里人が自分たちとは違う生業の、得体のしれない漂泊民集団を「双六(の輩)」と呼ぶことがあるかもしれない。それらの漂泊民が住んだ場所を村人が双六と呼ぶというシナリオは妄想が過ぎるだろうか。前記事「04小塩の焼け焦げやくっさま」では、漂泊の宗教者である六部を、村人は半端者で一人前の能が無い「六分」として云い伝えていたこともあるように、後代の歴史家の認識と、当時の村人の名詞に対する認識が違うことはありうるだろう。取るに足りないということは承知で、これからの地名の考察に二つの材料(前記事と合わせると三つ)をあげておく。双六の地名がいつからあるのかを決定することができないことは問題だが、博戯(博徒)に対する「双六」の呼び方は比較的短い期間のようなので、地名がそれと結びつくなら、命名の時代を限定できる要素となる。
大桃という村名についても、昔話の「桃太郎」を、壮大な朝鮮式山城「鬼の城」がある「まがね吹く」吉備の国の製鉄族の採鉱冶金文化(財宝)を、古代朝廷が奪い取る「鉄太郎」の伝承として読むなら、古の大桃と採鉱冶金にかすかな縁が見出せる。それとは別に滝の多い桧枝岐川の渓谷に位置する地勢からは、擬音地名のドウドウを百々と表記する地名(山梨県南アルプス市八田)があることなどから、多くの滝があるという意で「大(多)百々」を佳字化しての大桃という筋も考えられる。
「シナシに追加」
舘岩村の地名で(前記事 「つかめないもの」)不明な地名としてあげて置いた「シナシ」についての追加記事として、三角寛著『サンカの社会』(朝日新聞社)の中に参考になると思われる記述がある。サンカは戦後まで残っていた漂泊民で、箕や茶筅などの竹製品の製作や修繕を生業として、関東以西に展開していた。伝統的で特徴的な風俗を持つ民だ。詳しくは三角寛の著作参照。
「セブリ族は明治七年頃までは、風葬が多かったのである。」(同書)この「風葬」に「シナドオクリ」のルビが振られている(「セブリ」はサンカが自分たちを呼ぶ呼称)。シナドの「ド」は「処、所」なので語幹は「シナ」であり、この場合は「風」を意味している。南会津でシナシに当てられる文字が四無、志無、四梨、支那志と多彩であり、それは漢字の表意には拘らなくてよいということだ。二つが同じとした場合の「シナ」から「シナシ」への変化についてははっきりしないが、四無原(熨斗戸)と志無(下郷町)はそのまま「シナ」とも読める。「シ」が「址」であれば語義は通じる。「シナド」という語の作りも森戸、熨斗戸、伊与戸など舘岩郷に多い「○○ド」地名の作りで、つながりが感じられる。重要だと思うのは、サンカは、竹製品の製作具も自ら作るが、「シナ」=「風」から、シナドが道具を作る鍛冶の鞴や炉をも意味することだ。田島町の永田、糸沢、静川、福米沢、伊南村の多々石にある「風下」という地名も、シナドシタと発音した可能性はないだろうか。
場所は違うが、同じ福島県の郡山市片平村(『角川地名』)に片仮名表記でのシナシという地名があり、同村には鍛冶屋堰下、鍛冶屋河原、鍛冶田、鉄子田の地名もあることは、荒海川、舘岩川流域におけるシナシと鞴の関係を示唆するものと考えられるのではないだろうか。
「舘岩村・熨斗戸の鹿島神社」
サンカはその一党の象徴を「ウメガイ」という鋭利な両刃の剣型の刃物としている。「ウメはミゴト(絶妙)のウマシ(見事)で、すばらしいことの表意であり、ガイはカヒ(峡)で、断ち割りで、山をも断ち割るの意だといふ。」、「これを持っているかいないかで、それがサンカであるかないかが判別される(後略)」(前掲書)。この「ウメガイ」については舘岩村熨斗戸の古い祭神のことがひっかかる。
「現在総社の熨斗戸鹿島神社は、もと梅の宮と称して梅の古木に祀ってあったという。菅原道真を祀り、神体は梅鉢形をした天然石である。社伝によると天永年間に星川麻呂という人が来て創祀した」(『村史』四巻p.23)(前記事「祭神と伝承 その一」)
一見すると、祭神名と由来とがちぐはぐな記事なので印象深く、「梅の古木に祀る」という部分に、社は無かったことが伝わっていて、珍しい古い祀り方だと思ったことを覚えていたが、「ウメガイ」を知ったことで妄想がふくらんだ。東北の「i」は「e」とほぼ同音で、慣れない人には聞き分けられない(というより同じ)。東北最南端の南会津も例外ではない、長い伝承の過程で、ウメガイ→ウメガエ→梅が枝→梅ノ木に祀った→菅原道真、という変化がないだろうか。その間およそ600年かそれ以上、祭祀者の移動や変遷、時間の経過による忘却、伝承の地域的な発音による取り違え、さらにその上に流行りの神が付会されるという複雑極まる過程。もちろん根拠は思いつき以外にない。
田島町の川島だったと記憶するが、古い郷長の家神として道真を祀っていた伝承があって、やはり梅ノ木が出ていたように思う、残念なことに現在その記事を見つけられなくなっていて正確にお伝え出来ない。この『サンカの社会』は漂泊民の生活の様態が、その思想の由来まで詳しく記されている、ある種の『風土記』であるため、今後も参考にする機会が多くなりそうな気がしている。
宮沢の村名変遷
伊南村宮沢が、尾白根村、杉ノ岸(杉岸)村、宮澤村と頻繁に名を遷した理由は何だろう。最も古いのが尾白根村というのは全記事が一致し、現代まで続く信仰対象としての尾白山を象徴とする意なことは言うまでもないが、改名が多いのは注意を引く。
安藤紫香『会津における高倉宮以仁王』の宮沢の項には、大岸村という「新」村名も出てくる。宮沢は桧枝岐川と舘岩川が合流する内川(落合)からの伊南川が浜野の氾濫原に出てくるのを見下ろせる、西岸の河岸段丘上にあり、交通、軍事的にも要所だった。大水の時に濁流の寄せる「大岸」、段丘崖を守るために植えられた木を示す「杉岸」などは、地勢からの古い命名として頷ける。護岸のための杉を村名にしたり、以仁王を守って当地に来た抜鉾神が、その杉をつたって上州に帰ったという伝説は、村を守る杉の木に寄せる村民の感謝や誇りを思わせる。大岸から杉岸への変遷は大いにある気がする。
一方、以仁王伝説によって、「小白山からの谷川を宮沢というようになった」(『伊南村史』伊南村の伝説)、いつしかそれが村の名になったという、「小白山からの谷川」という表現には由来譚の作為を感じる。山に依拠する比率が高いこの地域では、どんなに奥の沢でも沢名があることは驚くばかりだからだ。想像するに、その沢は以仁王伝説以前から宮沢または寺沢と呼ばれていて、伝説がそれに寄せられたのだろう。上州から抜鉾神社が遷されたときか、あるいはそれ以前の原始的水神が山頂に祀られたときか、いずれにしろ、社を宮と呼ぶのが一般的になった頃には宮沢という沢はあったと考える。それが村名になったのは、「尾白根山東光寺という天台宗の寺だった」という、『里雑交』が世俗の話として伝える記事を正しいものとすれば、東光寺が失われて一の宮が祭祀の中心となっていった事の反映か。
カムナビ山であり祖霊、水神、鉱山神などを一の宮として祀った神社は、会津藩の進めた吉田神道化(社家管理)に従わずに、祖神も祀る両部神道(修験管理)を継続したこと、貴種流離譚に結びつけられた御嶽神の伝承、尾白根の地勢からも、宮沢が古くから郷の祭祀の核としての役割を果たしていたことは窺われる。今は静かな山村風景のたたずまいだが、重なった時間の中に埋まっている物語はむしろ騒がしく、尽きることが無い。
ふとしたことから南郷村の地名を考えてみようと思いたって始めた記事が、思わぬ拡がりと深さをみせて南会津郡西部を半周して、再度南郷村に戻ってきました(実は田島町の東と下郷町は漏らしていますが)。これは郷土の稀少な資料や情報を教えてもらったり、示唆してもらったりしたことによって、遠くにいながらも可能になったことで、私の物好きに協力していただいた皆さまには、あらためて感謝いたします。あわせてブログに公開してからは、拙稿を読んでくださる皆さまの存在も励みになっています。ありがとうございます。
次回からは伊南郷の北半分の南郷村に入っていきますが、明治初めまで永く伊南郷、伊北郷としての生活圏ができていたので、ほぼ真っ二つになる南郷村は、それに従って両郷にまたがっていかざるを得ません。伊南郷の中心地であった伊南村と、伊北郷の中心地であった只見町との記事の重複が避けられない部分があることが予想されますことをご了承ください。
田島町(荒海川、桧沢川流域)、舘岩村、伊南村、只見川流域の一部の地名・伝承・祭神を辿って、さらに南郷村、只見町、その先は越後?と進めていこうとするこの妄想の途中で、次第に考えはじめたのは、採鉱冶金の民があらゆる場所にいたような痕跡が、何を示すのかということです。いままで漠然と抱いていた、村(集落)の定着と移動が、そのように呼べるような集団だっただろうかという疑問がどんどん大きくなってきています。座右の銘としてきた谷川健一の「地名、伝承、氏族、神社、この四つを組み合わせることで、文献記録だけではたどれない古代に遡行することができる。」に、もしかしたらもう一つくらい要素を足せるのではと、おこがましくも感じています。それが何なのか、まだうまく言えませんが、古代をゆっくり歩きながら温めていきたいと思っています。


