天照シークレットツアー 3 黒潮ロード | 精神世界の鉄人のブログ

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UFOやチャネリング、霊、輪廻、超能力などの不思議な話題から、ビジネス、経済、政治、歴史、文化などの社会問題、そして、恋愛や結婚、ダイエット、旅などの現実的な話題まで、幅広く、日々感じたことを、書き綴ってみますね。

絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、西日本で、閉塞状態になっていたようです。

 

陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には、関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。

 

そもそも、仮に、東日本に行っても、荒れた僻地だったので、行っても、そこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。

 

それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。

 

「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」

 

ある時、こう決意したのだと思います。

 

海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。

 

 

そんなとき、一人の救世主が現れます。

 

「聖徳太子」

 

この人物が、助けたのです。

聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが、始まったのです。

 

救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。

 

私は、「聖徳太子=キリスト説」を、主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。

 

聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。

 

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彼らにとっては、「西日本」は、まるで、監獄にいるように、不自由な土地でした。

 

そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。

いよいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!

 

 

 

前回紹介した、「熊野権現神社」の神社の隣に、日本史における、最重要な寺があります。

 

「補陀落山寺」という小さなお寺です。

「世界遺産」でもある重要な場所です。

 

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本堂の前で、記念撮影しました。

 

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「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで、知られているそうです。

私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。

 

 

ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

「補陀落(ふだらく)」とはサンスクリット語の「ポータラカ(Potalaka)」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。

その山の形状は、八角形であるという。

インドの南端にあるとの説から、その土地は、スリランカだという説もあった。

 

観音信仰とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。

チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。

 

日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。

そして、この信仰を広げたのが、前述した、聖徳太子だったのです。


日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。

 

記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。

熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。

 

聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは、行われていたそうです。

 

 

チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。

そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために、迫害されていますね。

日本の「天照派」と、同じルーツだと思います。

「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「チャンバラ」があると言われていますね。

 

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「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。

 

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ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して、船出したと伝えられています。

 

補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が、刻まれています。

 

平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から、江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。

平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人。

補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に、行われたそうです。

 

渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。

 

渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に、乗りこんだそうです。

 

 

説明は、さらに、このように続きます。

 

 

渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。

 

渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。


渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。

 

船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。

 

 

こう書かれています。

これが、一般的な認識です。

 

 

境内には、この石碑があり、名前も刻まれていました。

記録に残っているだけの名前です。

実際には、もっと多くの人が、この渡海をやっていたと思います。

 

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渡海僧が乗りこんだ船を、復元したものが、境内にある建物のなかに、展示されています。

 

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奇妙な形をした小さな船です。

船の上には屋形が、作られています。

その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。

 

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人が、一人だけ入ることができる、テントのような小屋がありました。

前述したように、ここに、僧侶が一人だけ入り、外からは、釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。

 

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もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。

だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。

 

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ここからが、いよいよ本番です!

 

「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。

 

しかし、よく考えてください。

 

こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?

ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?

 

ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。

 

 

勘の良い方は、もうわかりましたね。

 

そうです。

 

「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!

 

「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」

 

というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!

 

 

本当のことは、隠されていました。

 

実際には、こうだったようです。

 

途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。

 

「よ~し! 行ってこ~い!」

 

こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。

 

 

すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。

この「黒潮ロード」に乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで運んでくれたのです。

 

ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。

 

そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏に、いろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前に、その場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中から、その僧侶を助けたのだと思います。

 

そして、その背後で、この秘密の脱出劇を、計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。

 

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「黒潮」について、いろいろ調べると、面白いことがわかりました。

 

もともと、黒潮は、赤道のあたりから、フィリッピンのあたりの海の流れを、日本に連れてくるそうです。

ただし、いろいろな理由から、沖縄の南西諸島あたりまでは、プランクトンの量が少なく、栄養に乏しいそうです。

 

それが、東シナ海から、「屋久島」の近海を通って、太平洋に流れ込むときに、海流が、その近くにある、「琉球海溝」という深い穴に、落ち込むそうです。

 

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その時の流れで、「急流」ができ、そこから、ジェット状になって、大きな海流の流れができるそうです。

 

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それから、「屋久島」から出た海流は、なぜか、プランクトンの量も、大量に増え、栄養豊富な海流となって、日本列島の太平洋岸を、流れるのだそうです。

 

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これは、私には、

 

「琉球海溝」=「龍穴」

 

「海流」=「海竜」

 

だと感じました。

 

 

つまり、大きな意味では、

 

「黒潮」=「龍神」

 

だということです。

 

日本を守護している「龍神」が、海流となって、日本列島を育んでいるのです。

 

 

左側の緑っぽい色の海が、南西諸島からの海流です。

そして、右側の黒っぽくて青い色の海流が、「黒潮」です。

 

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「黒潮」が、日本列島の海にも陸にも、豊かな自然を与えているのです。

日本においては、この潮流は、神のような存在なのです。

 

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どうですか?

とても面白い話だと思いませんか?

 

「西日本」 ⇒ 「東日本」

 

これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは、驚きですね。

しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのも、ビックリです。

 

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私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは、大陸の話です。

 

聖書には、そう書かれていますが、日本では、全く状況が違い、秘密裏に、一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。

 

その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!

 

これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を、東日本に逃がし、そこで、おそらく、現地の女性と結婚して、子孫を、広げていくという活動を、していたのだと思います。

 

目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。

 

 

西から東に移動したパイオニア達のルートは、研究している学者も、ほとんどいないと思います。

もしかしたら、ここまで、突っ込んで調査してまわったのは、私が初めてかもしれません。

 

まだ、名前も付いていないので、「シルクロード」のように、「黒潮ロード」と名付けようと思います。

 

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余談です。

 

「アカウミガメ」という亀は、子亀の時に、親亀が生んだ卵から生まれると、真っ直ぐに海を目指します。

これは、本能的な行動みたいです。

 

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それから、うまく黒潮までたどり着き、その潮流に乗ることができた亀だけが、生き残り、大人になることができるそうです。

「補陀落渡海」で、大海原に向かって流され、黒潮に乗った小舟は、まるで、黒潮を目指す子亀のように思えてきました。

 

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「補陀落渡海」の痕跡は、東日本にたくさん残っています。

それは、房総半島にも多く存在しています。

 

 

「西日本」から、「小舟」が辿り着いた場所にも行ってきました。

 

ここには、

 

「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」

 

という伝説が残っています。

 

「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供、その長女の名前が、「玉依姫」でしたね。

つまり、「天照派=大丹生家=天皇家」のグループが、ここから上陸したという意味なのです。

 
 

 

場所は、千葉県の「九十九里浜」です。

 

これも、もうわかりましたね。

 

「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」

 

こういう意味だったのです!

 

 

さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、

 

「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」

 

となり、意味は、

 

「三十八の国土」

 

という意味になります。

 

 

 

着く場所が、どうして、港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?

 

砂浜だからいいのです。

砂浜だと、大きな船は、接岸できません。

沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。

砂浜という地形は、小舟じゃないと、上陸できないのです。

 

大きな船が接岸できる港だったら、すぐに、追っ手に見つかってしまいます。

このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。

 

 

昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から、仲間によって救助されて上陸したと思ったら、大感動でした。

「浜鳥居」という名前だそうです。

 

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思い出してください。

和歌山県の「補陀落山寺」の隣にあった神社にあった案内板のことを。

99番目の王子の拠点、「浜の宮王子社跡」です。
 
「浜の宮王子」⇒「浜の鳥居」
 
こう繋がるのです。

 

海水でビショビショに濡れながら、上陸したのだと思います。

 

 

「九十九里浜」に上陸した後、僧侶たちは、だいたい、このルートを歩いたようです。

 

「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」

 

大まかな地図です。

 

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この鳥居から、車で、ちょっと走った所に、「神洗神社」があります。

そこに、「神洗池」という池があります。

真っ先に、ここで、ベトベトに張り付いた海水を洗い流したようです。

 

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それから、「玉崎神社」の辺りで、休憩したようです。

 

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「玉崎神社」の「玉」は、「玉依姫のグループ」だという意味だと思います。

「三つ巴」のマークがありますね。

「天照派」の拠点だった所という証拠です。

 

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房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。

 

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拝殿です。

黒色は、珍しいと思います。

いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。

 

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そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、

 

「うわ~~!!」

 

と、大声で叫んでしまいました。

 

「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。

 

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大感動でした~!

やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。

 

 

 

「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方には、他にも、たくさん残っています。

最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで、落ち着いたようです。

 

 

東日本においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、

 

「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」&「静岡県」

 

主に、この5ヵ所だったようです。

 

それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。

 

 

京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。

 

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今年になってから、栃木県の宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が、目に飛び込んできました。

「二荒山神社」という名前の神社です。

 

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「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。

 

もうわかりましたね。

 

「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」

 

こうなるのです。

 

この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。

 

つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。

 
 
この神社の拝殿の近くの灯篭の中に、不思議なシンボルがありました。
 
なんと、神紋が、「菊の三つ巴」です!
私は、いろいろ調べた結果、この神紋が、日本の古代史において、最重要なシンボルだと思っています。
 
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この神紋は、「三つ巴」と「菊花紋」が、合わさっていますね。
 
「日本という国家の中枢や奥底には、天照派のグループがいますよ」
 
こういう意味だと思います。
凄いシンボルですね~~!!
 
このシンボルは、重要な鍵になるので、よくおぼえておいてくださいね。
 
 
 
それから、しばらくして、別の日に、栃木県日光市にも行きました。
 
ここにも、同じ名前の神社があります。
 
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」
 
という神社です。
 
有名な「日光東照宮」の隣にある神社です。
ここにも、「三つ巴」がありました。
 
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ここも、和歌山県熊野のお寺と、密接に繋がっているのです。
 
だから、こうなります。
 

「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」

 

 

一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。

 

「補陀洛」→「二荒」→「日光」

 

こうなったそうです。

 

和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が、見事に繋がりましたね。

 
 
やはり、「天照派」のグループが、終の棲家に選んだ土地が、ここだったのです。
ここで、メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。
 
 
そして、大切なことは、「日光」という太陽の光は、古代において、いったん、ここで隠れるのですが、「日食」が、暗くなったあと、再び輝きだすように、そして、「天の岩戸開き」の天照大神が、籠ったあとに、再び顔を出すように、日本という国は、「不死鳥」というのが、シンボルマークでもあり、特性なのです。
 
「外国から、どんなに叩かれても、戦争で負けても、経済が悪くなっても、必ず復活する」
 
これが、「日本」という国の底力なのです。
 
そして、それを裏で支えているのが、裏の古代史に登場する、この旅行記の主役、「天照派」の人々なのです。
 
 
 
 
 

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トーマ

 
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