3・1関連 訳 | 韓国語教室 とるめんい川西

韓国語教室 とるめんい川西

2005年から兵庫県川西市で韓国語を教えています。

「一冊で見る韓国史 101の場面」チョン・ソンヒ著  より訳



P、299
民衆の抗日独立闘争
~3・1万歳運動(1919年)


        
1919年3月1日午後2時、鐘路中心部に位置するタプコル公園(パゴダ公園)に
数千人の学生・市民たちが続々と集まっていた。
[民族代表33人]が独立宣言式を挙行する、という噂を聞いてかけつけたのだった。

「我々はいま、朝鮮が自主民であることを宣言する」

2時30分、キョンシン学校の卒業生チョン・ジェヨンが八角亭に上がり宣言書を朗読、太極旗を掲げた。
そうしてパゴダ公園に集まった学生と民衆は一斉に「大韓独立万歳!」と叫びながらデモに突入した。
一部のデモ隊は武橋洞から大韓門のほうに進み、他のデモ隊は南大門駅から西大門駅に向かった。
3・1運動のデモはこのように、パゴダ公園に集まった学生と一般民衆を中心に始まった。

同じ頃、[民族代表33人]はパゴダ公園で宣言書を朗読する予定を中止し、テファ館に集まって
別途に独立宣言式を行った。タプコル公園で独立宣言式をすれば、群衆の間で何らかの事故が
起きるのでは、と憂慮した為であった。これを聞いた学生代表カン・キドクとハン・ウィゴンは、
テファ館に駆け付け、[33人]にパゴダに行ってくれと要請したが拒否された。

非公開にテファ館に集まった29人の民族代表は、ハン・ヨンウンの演説終了後、
「大韓独立万歳!」と叫びながら、公約3章を朗読した。
この日の式に参加した民族代表が29人であるのは、宣言文に署名した民族代表のうち、
キル・ソンジュ、ユ・ヨデ、キム・ヒョンジョ、チョン・チュンスら、4人が不参加だったためだ。
この式の後29人は連行されたが、この連行が自首だったのかどうかは今も明らかにされていない。

[民族代表33人]は、平和的な非暴力デモを望んでいたという。
武力抗争は犠牲者だけが増えるのみで、何の成果も成しえないと判断したためだ。
このような判断は3・1独立宣言書が、先の1918独立宣言書や2・8独立宣言書に比べ
かなり穏健に書かれていることからも伺える。

このようにして独立運動が始まったが、[民族代表33人]と学生・民衆は、
路線上に大きな違いを抱えていた。

デモ初日から学生たちは独立宣言書を配りながら練り歩き、
ソウルの街は「万歳!」という歓声で興奮状態に包まれた。

3月4日、専門学校と中学校の代表者らはペジェ学堂の寮で、
翌日の5日8時30分、学生たちをソウル駅広場に集合させ、再びデモを行うことを決議した。
3月5日、この運動に参加しようとピョンヤンから200人が夜行列車でソウル駅に到着した。
ソウル駅広場には学生と一般人4~5千人が集まった。
彼らは「独立万歳!」と叫びながら南大門に向かって行進した。
群衆らの間に独立を宣布するスローガンや太極旗があふれた。

ところがデモの群衆が南大門を突破しようとする瞬間、カン・ギドク、キム・ウォンビョクら学生代表をはじめ、
多くの人々が逮捕された。残りのデモ隊たちは警察の制止線を突破したが
普信閣でいったん解散させられてしまった。

万歳デモには当時、普通学校(小学校)の生徒も参加したが、彼らはデモだけでなく
授業ボイコットや日本語の教科書を破り捨てたりもした。
当時、普通学校の2年生だったユン・ボンギル義士は自主退学し、独立の意志をみせつけた。

学生たちのデモ運動が全国に及ぼした影響は非常に大きかった。
多くの学生が≪独立宣言書≫を胸に抱いて故郷に帰り、その地で民衆に独立の意志を伝えたからだ。

「わが村でも、独立万歳を叫ぶべきではないか?」

3月10日頃から全国の数多くの農村で農民たちのデモが相次いだ。
もはや3・1運動は学生主導から農民主導に変わっていた。
3・1運動が徐々に民族解放を目指した朝鮮民衆の全国的な蜂起へと拡大していく中で、
日本憲兵による弾圧もまた激しくなっていった。

4月15日、有田俊夫が指揮する日本軍は、スウォン・チェアム里に入り、
住民のキリスト教信者30人を招集した。そして彼らを教会の中に閉じ込め鍵をかけ、銃を乱射した。
「私は死んでもいいから子供だけは助けてください」という母親の訴えも無視し、
日本憲兵は子供の頭を銃剣で突き刺し即死させた。
教会の中の人々はほとんど射殺された。日本憲兵は火を放ち、建物を燃やしてしまった。
ホン某さんが血を流しながら外へ飛び出すや、集中射撃を行い射殺した。
妻が駆け寄り火を消そうとすると、妻さえ撃ち殺し、2人の子供も虐殺した。
この虐殺で死者は39人に達したが、近隣の村でも毎日このような虐殺が繰り広げられた。

これは当時日本軍が行った虐殺の中で最も残忍だった「水原・堤岩里事件」の光景だ。

日本憲兵の統計によると、全国で総776件のデモが起き、50万9500余名がデモに参加したという。
そして7500余名が死亡、1万6千名が負傷し、4万7千名が刑務所に収監された。
その中で[33人]と同じ懲役3年以上を宣告されたものが500余名にのぼった。

このように3・1運動の主役は33人の指導級人士ではなく、学生や一般民衆たちだった。

東京で2・8宣言(1919年)があった後、日本に留学していたソン・ゲベクは、この宣言文を持って
ソウルに潜り、ソン・ビョンヒら指導者たちと会い独立運動を訴えた。
さらに学生たちのパゴダ宣言がなかったら、
わが民族の抵抗精神を見せつけた3・1運動は成しえなかったかもしれない。




*3月1日は現在祝日になっています。
1919年3月1日、一般民衆が立ち上がった日を記念して。

「3・1」は私が30年前に朝鮮語学科を選んだきっかけの一つです。
近い国なのに何も知らないな…と、高校生なりに疑問に思ったこと。