久しぶりに思い出すと懐かしい、80年代の記憶。
キーワードを検索してもあまり出てこないので自分で書こうと思います。
韓国とは関係ない雑文なので、興味ない方はスルーして下さいね。
1、箕面4丁目の山本下宿で2年
土地勘もなかったので、
とにかく大学と同じ箕面市で、
大学の下宿台帳(下宿紹介ファイル)に載っていた中から
一番安い所に決めた記憶があります。。
一ヶ月の家賃9000円。
でも窓の下は桜並木で、時々馬が歩いていました^^。(観光用)
ここで生まれて初めて親元を離れ、一人で生活を始めたのでした。
大家さんの敷地内に寮が2棟あり、30人くらいの女子学生が住んでいました。
部屋はタタミ3畳、+押入れの扉を除いた板の間が寝床代わりになっていました。
共同台所、トイレ、バス、洗濯機。
電話は(呼び出し)←懐かしいね~。
かかってくる電話は大家さんの家で、
寮にスピーカーがあり、放送してくれるのです。
「○○さん、お電話。」
それを聞いたら、広い敷地内の大家さんの家まで走っていくのでした。
大家さんはいつも○○ちゃんという小型犬のペットと一緒で、
ものさしをバシバシ叩きながら敷地内の畑を歩いておられました。
1995年に仕事で箕面に立ち寄ったときに見たときは
既に取り壊され、ワンルームマンションになっていました。
2、坊島3丁目の印藤下宿で2年
大学生活後半は、部屋に小さな炊事場を備えたこの下宿に移りました。
ここも女子ばかり20人くらいが住んでいました。
4畳半、共同トイレ、バス、洗濯機。
一ヶ月の家賃は1万5千円。
電話は呼び出し。
かける時はもちろん公衆電話です。
一応下宿の建物の中にも公衆電話は一台置かれていたのですが、
携帯もない時代、夜は混み合います。
十円玉を何十枚も集めて外の公衆電話に出かけると、
そこも学生が使用中なんてことがザラにありました。
実は昨日この下宿を20年ぶりに見ました。
大家さんのお宅は門構えが立派になっていましたが、
下宿の建物は昔のそのまま。
カーテンがかかっていたけれど、今は使われていないそう。
取り壊しも近いみたい。
でもつい最近まで使われていたのだねえ・・・。
周辺は激変です。カルフールがあるし、映画館もある。
昔はおしゃれなカフェバーで人気の
新御堂筋沿いのピレーネ(白島交差点)、サンタモニカ(どこだったっけ、白い建物だったような)、
ウエストウッド(新御堂の西、ピンクの建物だっけ)があったけど、跡形なし。
建物の跡さえないのは寂しいですね。
新御堂筋のつきあたりに出来たD-liveで一時期、アルバイトもしていたが、
きれいになくなって、地下にもぐる穴が出来ていました(山の向こうに通じるトンネルらしい)。
今もあるのはモンキーヒルくらい?
モンキーヒルが今も変わらずそのままの姿で営業を続けているのは奇跡ですね。
激変したと書きましたが、
みのおサンプラザなど、当時と全く変わっていない建物も結構多いです。
3、瀬川5丁目の豊楽荘で1年。
韓国に短期留学して帰国後、大学卒業直前に移り住んだのがここ。
今にも崩れそうな建物でした。
家賃9000円、6畳。
共同トイレ、洗濯機。風呂なし(銭湯通い)。
待兼山の斜面にあり、30人くらいが住んでいたが、
ほとんどは阪大の男子学生。
女子学生は私ともう一人だけだった。
なんでこんな汚いところにこんな可愛い女の子が…って感じでした(私じゃなくもう一人の子^^)。
豊楽荘を韓国語読みすると、풍락장  プン ナク チャン。
「~荘旅館」のような響きなので、語科の子にからかわれましたっけ。
ここは私が住んでいる時から、取り壊す話は聞いていたほど古い木造住宅でしたが、
山の斜面に建っていたので、階段が所々にあり、
迷路のような、雰囲気のある下宿でした。
ここに住んでいた時は、生活費と学費は自分で稼いでいたので、
コンビニのバイトと塾のバイトでかなり忙しい毎日でした。
2005年に再び前を通ったときは当然跡形もなく、
きれいなワンルームになっていました。
今、回想するとすごく貧乏学生だったみたいですが、
当時は学生寮、学生下宿、あるいは一般アパートで
トイレ・風呂共同あるいは銭湯、呼び出し電話というのは普通だったんですよ。
大学の後半くらいになって、「ワンルームマンション」というのが外大坂にも現れましたね。
そういうところに住むのは憧れだったけど、
うちの親はそんなお金出してくれんと、
最初から諦めてましたね。