私は人生で30回も引っ越しをしている。
3歳の頃、家族と共に生まれ故郷の島を出て、最初に暮したのが、奇しくも今住んでいる高松だ。
その後、幼稚園の半年間だけ島に戻り、また、たまの夏休みに帰省したこともあり、
かすかな故郷の記憶が残っている。
島に帰ると必ず覗いたのが、村に1軒だけある 親戚が経営する「よろず屋」さんだった。
叔父はたまに帰省する私たち家族をいつも笑顔で迎えてくれる存在だった。
その叔父が、先日亡くなった。
日帰りできる松山市(愛媛県)での葬儀だったので、叔父に最後の挨拶をしてきた。
90を過ぎた大往生の叔父を前に、従姉兄たちと昔話をひとしきり。
従姉が「高松なんやね。昔、住んでるお家に遊びに行ったよ。」と言う。
従姉が高松に遊びに来たことがある?
3~4歳の頃の高松の記憶は朧気で、彼女が遊びに来てくれた記憶がない。
帰宅して、古いアルバムをめくってみると、これは!!
確かに、従姉と姉と私が写っている。
(全員一人前にバッグを手に持って、、、当時の女子のおしゃれ感が可愛いぞ)
そして、先日、金刀比羅宮で撮った写真を見返してみると、そこに同じ象が。
昔の高松や従姉と、今の高松の暮らしが重なったような気がした。
30回も引っ越していると人の縁も地縁も薄くて、日々たんたんと生きているのだけど、
意外と糸は繋がっているのかもしれないと思い、くすぐったいような感覚になった。
高松での糸を教えてくれた従姉と、その機会を与えてくれた叔父に感謝。
よろず屋はもう数年前に閉店したし、故郷との糸はほぼ切れてしまったけれど、
最近になって、別の叔父が島の蜜柑を送ってくれるようになった。
その叔父は松山に暮しているのだが、たまに島に帰って蜜柑を作っているという。
叔父から送られてくる箱を開けると、心が温かい気持ちで満たされる。
「故郷の味」が私と故郷を今も繋いでくれているようだ。
思い出が少ない私でさえこんな風になるのだから、
亡くなった両親が歳を追うほどに望郷の念を募らせていたことに納得する。
そんな年齢に私も近づいたということだろう。