沈黙の塔とパールシーと、森鷗外 | tokyoarukiのブログ

tokyoarukiのブログ

東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

私たちが暮らしていたボンベイ高級住宅街マラバル・ヒル

 


その小さな丘に、深い緑の木々に覆われひっそりとした場所があった。いや、今もある。


森の中にはゾロアスター教(拝火教)「沈黙の塔」Silent Towerが立っている。

 

 

外からは見えない。

教徒以外は森の中に入れない。

 

19世紀後半に描かれたデッサンで「沈黙の塔」のイメージをつかむことが出来る。

 

 



(ここから数行はちょっと怖いので、怖がりさんは読まない方が良いかも。)


時々、森の上空をカラスや猛禽類が飛んでいる。

あぁ、今日、沈黙の塔に遺体が運び込まれたんだなとわかる。


ゾロアスター教徒の知り合いによると、
塔の内側上部は緩やかな傾斜になっていて、しばらく鳥たちが啄んだ後、塔の中心に落とされるのだという。
中心は井戸のようになっていて、底にacid(酸)が満たされていて溶けていく。


「最後まで生けるものに役立って、環境に優しくて地球に一番優しいやり方でしょう?」

と彼女は説明してくれた。







ボンベイにはパールシー(ペルシャ人)と呼ばれるゾロアスター教徒が住んでいる。

 

 

8世紀ごろ(諸説あり)にペルシャ(イラン)から迫害されたゾロアスター教徒が逃れて住み着いたのがボンベイだ。



当時のマハラジャ(王様)に謁見し、

 

「お前たちの住む所はない」という王にパールシーの長老が答える。

 

「コップに並々と注がれたミルクに甘い砂糖を加えてもミルクは溢れません。

ミルクは益々美味しくなります。

私たちはこの地の砂糖となって、お役に立ちましょう」

 

答えに感心したマハラジャは彼らの移住を許し、土地を与えた。

 

この逸話は、パールシーの間で脈々と語り継がれている。

 

 

 

 

パールシーは顔立ちも色白のペルシャ系。

知的で文化的な人が多く、英国統治時代に重宝された。

ビジネスの才もある。

現在も富裕層が多く社会的に活躍している人が多い。

 

 

私がお世話になった英語の先生も、歯医者さんもパールシーだった。
 

 

映画「ボヘミアンラプソディー」で、フレディー・マーキュリーの出自がパールシーと知った人も多いかもしれない。

 

 

インド最大の財閥タタ・グループ創設者、歴代会長もパールシーだ。

 

 

 

▼タタ創業者ジャムシェトジー・タタが1903年に開業したボンベイ・タージマハルホテルは、開業当時「東洋一」と言われ、今もその荘厳な佇まいは変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち」という、マラバル・ヒルを舞台にパールシー出身女性弁護士が活躍する推理小説もあるらしい。(思わずポチっと買ってしまった)

 

 

 

 

 

 

 

先日、「森鷗外 学芸の散歩者」を読んでいたら、「『沈黙の塔』(三田文学1910年)は、『Parsi族』の死骸が投げ込まれる架空の塔だ」というくだりが出てきた。

 

 

 

 

 

 

あれ?と思って、読んだことが無かった「沈黙の塔」森鷗外を読んでみた。

(kindleで無料でダウンロードできる。)

 

 

 

内容はPersi族の内紛=新しい価値観・言論の粛清という架空の話だが、

 

「パアシイ族」、「マラバアヒルMalabar Hill」、「沈黙の塔」、、、

これはどう考えてもボンベイが舞台だ。

 

 

 

 

 

 

「なぜ、鷗外が「沈黙の塔」のことを知っているのか?」

 

私は猛烈に気になった

 

 

 

鷗外はドイツ留学(1884ー1888)経験があるから、その時に知ったのか?

往復路の様子を綴った「航西日記」に目を通したが、セイロン(スリランカ)は出てくるが、ボンベイは出てこない。

 

では、軍医として海外遠征した時(日清戦争:1894-95、日露戦争:1904-1906)に知ったのか?

 

それともインドボンベイに旅したことがあるのだろうか?

 

 

 

 

あれこれ調べていくうちに、「藤井宣正」なる人物に突き当たった。

 

藤井 宣正(ふじいせんしょう)

 

1859年生まれ、東京帝国大学哲学科卒業後、西本願寺文学寮教授となる。

1902-1904年、浄土真宗本願寺派の門主大谷光端が組織した学術調査隊・大谷探検隊として、中央アジア、インド、東南アジアへ3度わたり仏教伝播の軌跡調査を行い、シルクロード研究、インドのエローラ、アジャンダ遺跡石窟群の調査をする。

 

200日に及ぶ行程のレポートが日本へ送られた後紛失し、彼らの調査は正当な評価を受けられなかったが、隊の様子は宣正の記した「印度霊穴探見日記」に見ることが出来る。

 

元々体が弱かった彼は劣悪な環境の中で研究・調査に打ち込み、1903年の調査の途次、マルセイユで帰らぬ人となった。

 

(以上、Wikipedia より抜粋)

 

 

1904年、島崎藤村が彼をモデルとした短編小説「椰子の葉蔭」を雑誌「明星」に発表した。

藤村は「破壊」執筆取材の過程で藤井の存在を知ったらしい。

 

ただし「椰子の葉蔭」には「鳥葬」の記述が出てくるが、「マラバルヒル」、「沈黙の塔」どちらの言葉も一切出てこない。

 

 

一方、藤井「印度霊穴探見日記」には「馬車ニテMalabar Hill 二 Tower of Silence ヲ見ル」と言った記述やパールシーの記述が出てくるが、この日記が発見されたのは、ずっと後年、1970年以降のことらしい。

 

 

 

 

では、鷗外は1910年発表「沈黙の塔」を執筆するにあたり、ボンベイ「沈黙の塔」の存在をどう知ったのだろう。

 

 

 

「沈黙の塔」を読んでもわかる通り、鷗外はかなり哲学の教養深く、哲学的思考をする。

 

 

アショーカ王の事蹟もまとめており(「阿育王事蹟」1987)、インドのことを深く調べている。

 

 

(ついでに言うと、美術にも薀蓄が深く、晩年は帝国博物館(現・東京/奈良/京都国立博物館)総長、帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長など務めている。森鷗外はつくづくスーパーマンのような人だ。)

 

 

哲学、仏教学、インド学などを追求する過程で、藤井のこと、あるいは沈黙の塔のことを知ったのではないか。

年齢的に近いので、何らかの伝手で藤井の存在を知っていたり、日記を目にしていたかもしれない。(鷗外:1862~1922、藤井:1859~1903)

 

 

 

付け焼刃な調べでは、鷗外が「沈黙の塔」や「パールシー」の存在を知った理由を特定することは出来ないが、

いずれにしても、明治期の文豪がボンベイの「沈黙の塔」を知り、作品に取り入れていることに驚く。

 

 

 

 

ただ残念ながら、作品の中で取り上げられる「パアシイ族」は、新しい価値に傾倒する仲間を粛清する集団として描かれている。

(このことから同作品は、当時日本で起こった反政府主義者の弾圧「大逆事件」へのメッセージと分析されている。)

 

 

 

確かにパールシー「ボヘミアンラプソディー」の父親に表現されているように、厳格だ。LGBTなど新しい価値観に対しては非常に偏屈である。

 

 

また、

パールシーの父親の子はパールシーになれるが、

パールシー女性と異教徒男性との間に生まれた子は、パールシーにはなれない。

たとえパールシーと結婚しても、相手は改宗できない。

異教徒と結婚したパールシー女性もパールシーでなくなる。

(だから、パールシーの数は減少し続けている。)

 

 

この一見狭量に思われる「狭き門」は、大昔に移住を受け入れてくれたマハラジャと交わした「布教活動をしない」という約束を守り続けている故だと、知人は語った。

 

 

 

 

こんなふうに、パールシーは大変誠実で、そしてストイックだが、他人には寛容だし穏やかで決して攻撃的ではない。

 

「ボヘミアンラプソディー」に出てくる両親の語る「善を思い、善を語り、善を行う」という言葉が、私のパールシーの人々の印象にしっくりくる。

 

 

 

 

厳格な宗教には違いないが、創作とは言えその名をそのまま「大逆事件」の揶揄として使うのはいかがなものだろう。

 

 

当時、英国領ボンベイでビジネスを展開していた日本人のお相手の多くは、パールシーのビジネスマンに違いない。

 

大文豪にして軍医鷗外がボンベイを訪ねたなら、かの地の日本人たちはインドの友としてパールシーを紹介したはずだ。

 

 

 

このことから、私には、鷗外が実際にボンベイを訪れたとは思われないのだが、、、鷗外の専門家に正解を教えていただきたい。

 

 

 

 

 

と、パールシーとちょこっと親交のあった者の独り言に、長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。照れ

 

 

 ▼タージマハルホテルから見下ろすボンベイ湾、インド門。インド門の建築は1924年。

 (タージマハルホテルの2枚の写真は、ホテルHPからお借りしました)