(引き続きインドネタを書き留め)
当時のボンベイには「日本人学校」があり、上の娘たちは会社の規程でそこにお世話になった。会社としては日本人学校設立にあたって出資しているので、駐在員側に他の学校という選択肢はなかった。(現在は教育の自由が優先されている)
文科省の試験を受けて来印する優秀な先生方に少人数で教えてもらえるのは、日本の教育システムに戻ることを前提とすると、むしろ贅沢なことだった。
残念ながら、在外にもかかわらず帰国子女らしい英語力は身に付かなかったけれど。
▼海の見えるボンベイ日本人学校の校庭
▼インド文化学びの時間もあり、愚親よりはインドへの理解が深まったはず
さて末娘は、
就学前だったので、現地の幼稚園に通うことになった。
日本の幼稚園を数か月経験して、「幼稚園は楽しい」と言うイメージを持っていた娘にとって、それはなかなか困難な体験だった。
三女は極小未熟児(出生時体重900g)で生まれた関係で足が悪く、強みは何と言っても「おしゃべり」なのだ。
それなのに、新しい幼稚園の先生は宇宙語(英語)を話す先生と友達ばかりなのだから、そのストレスたるや想像に難くない。
初日は大喜びで出かけて行ったのに、二日目からは毎日わんわん泣いていた。
私も心配で心配で、送って行ってそのまま入り口で見守るという毎日だったが、10日ほど経った頃、園長先生に「彼女は大丈夫、任せて」と言い渡された。(そりゃそうだ、過保護な母親が物陰から見ていては、やりにくくて仕方ないだろう。)
(▼こんな感じ)
そして、ひと月経った頃には、娘は英語の歌を家で楽し気に歌ってくれるまでになっていた。
娘が通っていたのは、我が家から最も近い、英語で教育を施すインターナショナルな幼稚園だった。
マラバルヒルという高級住宅街を形成する小高い丘の上にあって、日本でいうならば六本木ヒルズの幼稚園みたいなイメージだ。(なのか?!)
送り迎えしていた私の観察眼によると、
「あれ?あのお父さん、ムービー・スターではないかしら?」
「颯爽とした一流ビジネスマン!」
「お金持ちそうなマダム~」と言ったインド人が送り迎えに来ていて、
私だけが「メイドが送り迎え」と間違われそうな身なりだった。
だから仮に、この幼稚園を「ヒルズ幼稚園」と呼ぶことにしよう。
ヒルズ幼稚園には、当時流行っていたゲーム「ストリートファイター」の「ダルシム」にそっくりな手足の長いおばあちゃん先生がいて、娘のお気に入りだった。
そういえば、ダルシムはインド人だ。
また、お家に呼ばれていくと、家紋入りのクリストフル(銀食器)一式で食事が出てきて、「手入れが大変かって?うちは毎朝の"銀食器磨き専用"のメイドがいるから大丈夫よ。」とのたまう超お嬢様な先生もいた。
そんな、なかなかユニークな先生陣だったが、最もユニークなのは、ヒルズ幼稚園の建物だった。
昭和の「海の家」か、あるいは「牛小屋」と見まごうばかりの外観。
当時は携帯を持ち歩くわけでもないので、外観を写真に撮らなかったのが悔やまれるが、とりあえず建物内部はこんな感じ。
クリスマス会で綺麗にデコレーションされているが、窓を見ると・・・。壁には穴?
幼稚園に楽しく通うようになった頃、三女が目を輝かせながら、こう言った。
うちの幼稚園って、すごく便利なんだよ!
おやつをこぼしたら、烏(カラス)がお掃除してくれるんだよ。
・・・・・
あああ!!そうきたか!
そういえば、ボンベイの街を歩いていると、ごくたまに上から残飯が降って来た。
窓から捨てるのだ。
それこそ食べこぼした物は、拾って食べてくれる烏?犬?あるいは人間?がいるからだろうか。
マナーがなっていない人がいるのは、どこの国でも同じ。
食べ残しゼロの活動になると思えば、これもあり?
ヒルズ幼稚園は借地に簡易の建物を建てていたらしい。
契約トラブルのため、或る年のクリスマス休暇明けに通園すると、「一時閉園」の紙が入口に張られて、中に入れなくなっていた。
数週間後に別の古いビルを使って再開されたけれども、カラスのお掃除屋さんはいなくなり、親子で少しがっかりした、、、、、って、どれだけインドに順応してるんだ!
娘たちが通った日本人学校は、現在、ボンベイ中心部から郊外に移転している。
日本の各企業駐在員たちの住まいも、かつての中心部からは離れているそうだ。
空港を中心に郊外に新しく開発された「ニューボンベイ」が日本人駐在員の生活拠点になっているらしい。
マラバルヒルに暮らす日本人も、もういないのだろうか。