久しぶりにブログでもと思ったら、2か月間書いていなかったということに気づき少々愕然としています。
光陰矢の如しですな・・・。いえ、単なる三日坊主の言い訳です。
さて、休みの日にぼちぼちと出歩いていますが、高松の近郊「丸亀」の話でもしようかと思います。
以前、高松には日本一長い立派な商店街があり、その再開発の中心になっているのが「丸亀町商店街」だという話を書きました。「丸亀城」城下でかつて商いをしていた商人たちが、江戸初期の「一国一城令」を機に高松城界隈へと移住してきたのが高松の「丸亀商店街」の起こりと聞きます。
「丸亀城」は今も丸亀の町を見下ろすように小高い山の上に立っています。
現存する天守閣そのものは小さいですが、天守に至るまでの坂道を為す石垣群は見上げる高さで立派です。
また、大手門も、江戸城北の丸「清水門」に趣が似て、堂々たるものです。
さて、城を後にして丸亀港に向かった私は、静かな港で一人、心の中で大騒ぎしておりました。
一角に古びた大きな灯籠が建っておりまして。「江戸講中」の大きな文字。
そういえば、この辺りは江戸時代に全国から金刀比羅宮に参詣する際の船着き場、
いわば「金毘羅さん」(金刀比羅宮の通称)の玄関口であったはず。
こんぴらふねふね おいてにほかけて シュラシュシュシュ
まわればしこくはさんしゅう なかのごおり ・・・
私は幼少期を四国で暮らしていたため?この歌を幼少期から口ずさんでいて、
「おいてにほかけて」は「お池に帆掛けて」、
「さんしゅう」は3周、
「なかのごおり」は「中の通り」だと、
つい最近まで思い込んでいました。
正しくは「追手に帆かけて」、
「讃州 那珂の郡」。
「讃州」は香川県の旧称、「那珂の郡」は丸亀近郊の旧称です。
港に建っているのは、この歌の内容を裏付けるかのように、江戸商人を中心に今でいう「クラウドファンディングで」造られた大燈籠です。
最も沢山寄付した人の名から「太助燈籠」とも呼ばれています。江戸本所相生町の塩原太助さんの名前がドーン。
「江戸時代の地名や人名を眺めるのが好き」という変な癖がある私は、
名前が彫り込まれた側面をまじまじと眺めて
「千駄木町 団子坂」なんて地名を見つけてしまったものだから、そりゃあ、あなた!!!
「千駄木団子坂」は高松に来る前まで、よく散歩していたエリアなのです。
「〇〇さんは、千駄木から日本橋辺りに出て、船に乗って、この港に来ただろうか?」「それとも大阪あたりにお商売に来て、その足を伸ばして?」
「〇〇さんのご子孫は今も千駄木にいらっしゃるだろうか?」
時代がぐるぐると交錯するような妄想にとらわれながら、静かな瀬戸内海を眺めたひとときでした。
(興奮のあまり、肝心の「千駄木町の何某さん」の部分を撮り忘れた)
港から徒歩5分ほどのJR丸亀駅前には、三越の包装紙をデザインしたことでも有名な「猪熊弦一郎」の美術館もあります。
遠目には真四角な箱ですが、内部に至るまで「さすが」とうならせるデザイン建築です。
「太助燈籠」が見守る「丸亀港」~丸亀駅(駅前にはお城を模した郵便ポスト▲も)、
駅前の猪熊弦一郎美術館~丸亀城〜さらに欲を言えば、かつてのように「金毘羅さん」まで。
はっきりと動線が描かれたら、観光客がもっと増えるのではないかしら・・・
高松の商店街と比べて、人通りのまばらな丸亀の商店街を歩きながら、
素人ながらに思った丸亀散策でした。(丸亀さん、偉そうにごめんなさい)
▼江戸時代の「金毘羅参詣名所図会」(1847)にも、港に立つ大燈籠(太助燈籠こと金比羅講燈籠)と丸亀城が描かれています。
また全国から、海外から、金毘羅詣での人々が増えると良いですね。