春の外濠を歩く | tokyoarukiのブログ

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東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

(花の色は移りにけりな・・・ので、急いで写真をアップ。と言っても数日前の写真です。)

 

 

徳川家康が江戸に入り、城の防御や城下の整備に工面したことは、よく知られています。

 

 

西高東低の江戸の西側を中心に深い濠を作り、治水のために城の北を流れる神田川を隅田川まで引き込み、掘り起こした土で東側の低地を埋め立て、、、といった具合です。

 

明治初期(地形的には江戸時代と同じ)と現代の地図を並べてみます。

 

江戸城(皇居)をぐるりと囲む二重の濠(内濠、外濠)。

内濠はほぼそのままですが、外濠は埋め立てられた部分が多いことがわかるでしょうか。

 

 

 

今回は、今なお残る外濠のひとつを見に行きます。

 

 

 

 
 から順に歩いて行きます。
 

 

 

 

地下鉄 赤坂見附の駅を出るとすぐに、立派な石垣が目に入ります。江戸城の外濠にあった見張り付き城門(見附)「赤坂御門」の跡です。

 

 

 

 

この門から西側に、江戸城の外濠だった「弁慶壕」と呼ばれる濠が広がっています。 

 

この濠は一時かなり荒廃していたそうですが、今は綺麗な水が蘇り、釣り人達が竿を垂らしています。

 

 

 

濠には「弁慶橋」❸ がかかっています。

江戸時代には防衛上当然、見附門のある場所以外に橋は無く、これは明治以降にかけられたものです。

 

欄干の形からあの弁慶を連想しがちですが、江戸城普請に関わった大工の棟梁「弁慶小左衛門」が作った橋だから「弁慶橋」。

江戸期には神田鍛冶町あたりを流れる藍染川にかけられ、「江戸名所図会」にも載る名橋でした。

 

明治22年(1889)藍染川の埋め立てで不要となったものをこの地に移され、その後、戦災による損傷、改築を経て現在に至ります。

 

弁慶橋がかかっているから「弁慶濠」なのです。

(「あの堀が実は同じく弁慶小左衛門の築いた堀なので弁慶堀という」と書かれた本もあるようですが、調べた限りでは地図中に「弁慶濠」の文字が出てくるのは昭和以降です。橋が先行した命名ではないかと思いますが、江戸城普請に関わったとなると、濠も彼の手によるかもしれませんね。)

 

 

 

弁慶橋を渡って、ホテルニューオータニや旧赤坂プリンス跡地に向かいます。

 

赤坂プリンスは2011年に廃業、「東京ガーデンテラス紀尾井町」に生まれ変わりました。

 

 

 

新名称につく「紀尾井町」の名の通り、この辺りには、江戸時代、紀州徳川・尾張徳川・井伊のお屋敷がありました。

 

 

 

 
 
この辺りは清水谷
明治初頭には明治天皇が赤坂御所(後述)に仮住まいされており、ここは要人が天皇謁見のために通う道でした。
明治11年(1878)、この地で大久保利通が暗殺されています(紀尾井坂の変)。
 
 
 

 

今が盛りの八重桜の咲く通りを過ぎて左に折れ、「紀尾井坂」❺ を外濠に向かって上って行きます。

 

 

 

 

 

 

坂を上りきった所にある階段を上ると、眼下に埋め立てられた濠の跡が広がります。

 

「四ツ谷濠」、真田藩が普請したことから「真田濠」❻ とも呼ばれるこの濠の跡は、現在、上智大学のグランドとして使われています。

 

 

 この窪地のような濠の跡を電車の中から何度か見たことはありましたが、こんな風にのんびり眺めたのは初めてかも・・・。

 

 

 

 

階段を下り、右手にグランドを見ながら再び濠を渡るように道を進みます。ここも見附のひとつ、特殊な形状(防衛のため、道がジグザグになっていた)から「喰違木戸」(くいちがいきど)❼ と呼ばれる出入り口の跡です。

 

ここで明治7年(1874)、明治天皇に謁見し自宅に戻る途中の岩倉具視の暗殺未遂が起こりました。負傷した岩倉は四ツ谷濠(真田濠)に落ちたことで助かったとか。(喰違の変)

 

 

 

 

道の途中、左手に菜の花の間から、先ほどの弁慶壕が見えてきました。

 

菜の花と桜の向こう、長閑に浮かぶ釣り小舟。

「春の海」ならぬ「春の濠 ひねもすのたりのたりかな」といった風情の 大層味わい深い光景でした。

 

それにしても、紀尾井坂を上がった結果?弁慶濠が随分と下方に見えます。

 

 

 

実際、四ツ谷濠(真田濠)と弁慶濠では、標高がかなり違うようです。

(下表は「地形で解ける!東京の街の秘密50」 内田宗治 よりお借りしました。)

内濠・外濠とも、同じ濠であっても場所によって高低差がかなりあり、棚田のような造りになっているそうです。

 

 

 

これも江戸・東京の西高東低な地形ゆえでしょうか。(▼国土地理院「デジタル標高図」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、外濠を渡り切った所にあるのは、迎賓館赤坂離宮❽ です。赤坂御所の地でもあります。

 

外濠に面した東門は、旧紀州藩の黒門を移築した堂々たる門構えですが、通常は閉められたままです。

迎賓館見学の際は予約の上、西門からの入場となります。

 

 

 

 

さぁ、弁慶橋まで戻って、ひと休みしましょうか。

 

 

ホテルニューオータニ❾ガーデンラウンジで旧井伊屋敷の広大な日本庭園を見ながら優雅にお茶するもよし。

あるいは、紀州藩跡→北白川邸跡→ 旧李王家東京邸→赤プリ旧館と時代の流れを見続けてきた、赤坂プリンスクラシックハウス(ラ・メゾン・キオイ)➓でアフタヌーンティーもよし。

 

(昨秋の写真) 赤坂プリンスクラシックハウス

 

 

 ❤️❤️❤️❤️❤️

 

そんな贅沢な時間を夢見たばぁばでしたが、流石にジーパンにスニーカーではなぁ、、、⤵︎⤵︎⤵︎と考え直して、

赤坂見附から溜池山王方面へと続く、かつての外濠の上を走る都道405号★ を歩き、日枝神社へと向かいます。

 

 

 

それは、また後日。では今日はこの辺で。