論理的思考とは何か??抽象度を交えて考察する!! | キンジの自分軸哲学

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~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

 

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

論理的思考と言いますと、

所謂、

 

数値化されたものの事とも言えるだろうし、

もっと言えば、

 

数値化を意識に置いた上での、

文章の形態の事を指して、

論理的思考と言えるものでもありますし、

また、

 

原理原則や、物理法則や、

何かの法則性を踏まえた上で、

構築されて行くような言語の事を指して、

 

論理的思考と言えるものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

即ち、

 

学校教育的、勉強的に言えば、

 

算数、数学、化学、物理・・・・・・etc等を、

踏まえた上での、文章化でもあり、

 

言語化の事を指し表す訳ではありますが・・・・・・・、

 

それだけに特化した文章ってものには、

そこには、

あまり、

 

常識的な事とか、情緒的な事が、

反映されていない文章と化すのもまた、

よくある事ではある事でしょうね・・・・・・・。

 

 

 

要するに、

 

論理的思考だけに特化した文章ってものは、

そこには、

 

常識的な事とか、情緒的な事・・・・・・、

もっと言えば、

 

文学的な要素や、芸術的な要素に欠けたものに、

なりガチでもあり、

 

だからが故に、

 

誰しもにとって、

肌感覚的には、理解し辛いものとなってしまうものでもある事でしょう。

 

 

 

だからが故に、

そこに、

 

文学的な要素や、芸術的な要素を加味する事によって、

 

そこには、

 

エンターテイメント性が生まれる事にはなってきます。

 

 

 

 

・・・・・・・が、

勿論、

 

文学的でもあり、芸術的な要素に溢れた文章ってものは、

 

エンターテイメント性とか、芸術性と言ったような要素に、

特化されてはいますが・・・・・・、

 

それに特化され過ぎていてもまた、

 

そこには、

 

論理性ってものが、

皆無になってきちゃって、

 

それの再現性も無いものになってしまうだろうし、

 

それの、そもそもとしての、

 

一貫性ってものもまた、

無くなってきてしまって、

 

その、

 

書いたり、喋ったりしている、

本人ですらも、

 

「何が言いたいのか??」って言う風な、

メッセージ性ってものを、

見失う事に、なりガチではある事でしょう・・・・・・。

 

 

 

まぁ、

だからとは言っても、

その、

 

一貫性を持った、メッセージ性ってものは、

そもそもとして、

 

難しいものでもあり、

 

普段から、

 

そのメッセージ性ってものを、

頭の片隅に置く事を意識した上で、

日々の行動をとって行かない事には、

 

そのメッセージ性ってものの、

これまたそもそもとしての、

 

抽象度ってものが、

高まらない事により、

 

中々、一貫性を持ったメッセージとして、

出来上がって行くものじゃあ無いものでもある事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

し、

だからが故に、

 

別に、

その、

 

自分自身が、掲げて行きたいと思っている、

メッセージでもあり、

自分自身が、その方向性に、

邁進して行きたいと思っている、

メッセージってものに、

 

勿論、

 

一貫性ってものが、

早い内から、存在しているに、越したことは無いのですが・・・・・・、

 

途中で、

その一貫性ってものを、

見失ったり、そもそもとしての、

論理が破綻してしまっても、

良いのです。

 

 

 

それ自体が、

 

その一貫性を、掲げ続けて行く、

理由を掘り下げて行くことにもなるだろうし、

 

その論理破綻もまた、

 

まだ、

 

その一貫性を、掲げて行くのであれば、

軌道修正の為の、肥やしにもなるからなのです。

 

 

 

けれども、

 

自分自身が、一旦、

護って行く前提で掲げた一貫性ってものを、

取り下げて行く時にこそ、

 

実は、

 

注意が必要になってくるものでもあり・・・・・・、

 

自分自身で、

自分自身を舐めてかかると、

 

その一貫性を取り下げる行為自体が、

色々と、

 

転落して行くキッカケにもなってしまいガチでもあり、

 

それが癖になると・・・・・・、

所謂、

 

「負け犬。」のような在り方を体現する、

残念な人にもなりかねないので、

要注意ではありますね・・・・・・・・。

 

 

 

その対応策としては・・・・・・、

 

兎にも角にも、

 

自分自身の、一貫性の論理破綻が起こった際には、

直ぐに、

最優先的に、

その、

論理破綻の代わりとなるような、

新たな行動経験が、必要となるものではありますが・・・・・・、

 

そういう時に限って言えば、

 

それは、

 

人の話に乗っかって行くのでは無く、

 

自分自身の行動経験を踏まえた上で、

 

新たな、試行錯誤を経て、

自分自身の、メッセージにまた、

一貫性をもたらす事が、

 

望ましい事にはなってくる事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

そこで、

 

人の話に乗っかって行く事自体が、

その、

 

自分自身のメッセージの、一貫性の行方を、

他人軸任せにする事にもなり・・・・・・、

 

上手く行っても、

調子に乗ってしまうだろうし、

 

下手を打っても、

人の性にしガチになるだろうし・・・・・・、

 

どんどん、

 

自分自身の株ってものを、

自分自身で下げて行きガチになっちゃうのですよ・・・・・・(^^;)

 

 

 

 

だからこそ、

普段から、

 

論理的思考を意識し、

数値化もまた意識する事によって、

 

その記録でもあり、

経験自体を振り返ってみると、

 

一体、

 

どこの部分によって、

 

「自分自身のメッセージの、一貫性は、脆くも崩れ去ったのだろう・・・・・・・??」

って事を、

 

考察して行く事も、容易になってくるものではありますが・・・・・・・、

 

その、

 

普段から行う、

論理的思考や数値化ってものを、

キチンと、

 

自分自身の言葉に置き換えて、

記録しておかない事には、

それは、

 

他人軸状態と同義でもあり、

 

後で振り返った所で、

 

何ら、自分自身に、響いてくる事の無い、

記録になってしまいガチではある事でしょう・・・・・・。

 

 

 

 

それはある意味、

 

自分自身の為にこそ、

 

自分自身の言葉によって、

 

要所要所の論理的思考に沿った、

名言を創造するって事でもあり、

 

それでこそ、

その、

 

論理的思考に、

 

文学的、芸術的な要素が加味されて行く事によって、

 

情緒的にも響く言葉となり、

 

論理的、芸術的、エンタメ的な要素が、

包括されて行く事により、

 

その対処自体を、

これまたある意味、

 

肌感覚で、行って行く事も可能になり、

 

それをまた、

 

自分自身の為にこそ、

 

自分自身の言葉によって、

 

要所要所の論理的思考に沿った、

名言を創造する事によって、

 

自分にとって、

 

腹に落ちる文章でもあり、言葉となる事により、

 

「腑に落ちる。」理解を、

描いて行く事が出来る=「腑に落ちる。」理解を、

表現する事が可能になる=「腑に落ちる。」理解を、

体現する事もまた、可能になってくるのです・・・・・・・・!!

 

 

 

結局、

それは、

 

個人的な、主観的な領域で見れば、

 

「腑に落ちた。」って事を、

言えるものではありますが・・・・・・、

 

客観的な視点でもあり、

 

ある種の、

 

演技的な視点でもあり、

もっと言えば、

 

芸術的な、表現するって視点の観点で言えば、

 

その、

 

「腑に落ちた。」って事には、

主観的と客観的、

両方面からの、メリットってものが、

存在している事もまた、

理解可能ではある事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

要するに、

 

自分自身が、深い理解を得るって事自体が、

 

主観的な、

「腑に落ちる。」って事であり、

 

客観的な、

「腑に落ちる。」って事には、

 

演技的な効果でもあり、

芸術的な、表現の効果が発揮される事によって、

 

ある種の、

ハッタリのようではありますが・・・・・・、

 

その表現でもあり、

その在り方を体現する事によって、

 

何かしらの気付きでもあり、

恩恵を受ける事が、可能になるものでもあるのです・・・・・・・!!

 

 

 

勿論、

それは、

 

ある意味、

 

文学的、芸術的、エンタメ的な恩恵に過ぎないものかも知れません。

 

 

 

 

・・・・・・・・が、

よくよく、

考えてみれば、

 

絶望ってものさえも、

 

その本人自体が、

自殺とか、死に至っていないのであれば、

 

それは、

ある種の、

 

芸術的表現でもあり、

演技的表現だと、取り扱う事もまた、

可能ではあるからなのですし・・・・・・・・、

 

それでこそ、

 

その本人は、

 

絶望の先に、

 

何かしらの希望でもあり、展望を、

見出す事が出来ているのでもある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

 

ノルウェーの画家の、

 

エドヴァルド・ムンクのムンクの叫びも、

絵画であり、芸術ですしね。

 

 

 

 

だからとは言っても、

 

絶望している人を、

放置するって事自体は、

頂けないものではありますし、

 

ある種の、

 

それくらいは、

こちらとしては、

 

心の余裕を持った上で、

接さない事には、

 

その絶望の在り方ってものが、

伝染してしまうものでもあるでしょうから・・・・・・・(^^;)

 

 

 

まただからこそ、

その、

 

例え、

 

文学的、芸術的、エンタメ的な恩恵に過ぎないものであったとしても、

 

「腑に落ちた。」って事を、

表現、体現する事により、

 

その先の、

 

文学的、芸術的、エンタメ的な道を、

邁進する事によって、

 

論理ってものは、

 

一緒に付いてくるものだという理解もまた、

必要にはなってくるでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

その論理は、

もしかしたら、

 

過去に、既に、

構築していた論理ってものが、

 

便宜的に、

再構築されたものなのかも知れませんが・・・・・、

 

文学的、芸術的、エンタメ的に、

新しい新鮮味のあるアイデアってものが、

創造されて行く事によって、

 

その、

 

使い古された論理ってもの自体の、

イメージってものが破壊され、

 

文字通り、

 

応用・流用のように、

分析してみれば、見えるものではありながらも、

 

真新しい世界観として、

出来上がって行く事にはなる事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

し、

 

使い古された論理の、

応用・流用として、

 

分析する事もまた、

大事な要素ではあるでしょうが・・・・・・、

 

真新しい世界観として、

享受する事もまた、

 

大切な要素とはなる事でしょうし、

 

その、

 

両方を踏まえた上での、

充実加減こそ、

 

その、

 

「腑に落ちた。」表現、体現の先に存在していた、

 

文学的、芸術的、エンタメ的、論理的を踏まえた、

コンテンツとの、

 

相性の良さを測る要素にはなってくるものではありますね・・・・・・・??

 

 

 

 

・・・・・・・とは言っても、

 

それはきっと、

 

文学的、芸術的、エンタメ的な要素が先行するものであり、

 

実は、

あまり、

 

論理性の部分には、

 

人はあまり、意識が向いていないものなのかも知れないですが・・・・・・・、

 

その再現性の足下となるのは、

 

論理的思考な部分でもあり、

数値化された部分ではあるのでしょうね。

 

 

 

その、

ある意味、

 

論理的思考な部分でもあり、

数値化された部分から、

 

RPGゲームの要素のように、

 

成長要素を抽出して、

その成長要素を、明確にした上で、

体系付けて行く事が、

重要にはなってくる事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

その成長要素は、

 

目の前の取り掛かるべき行動によって、

 

それぞれ、

別の体系として、

 

存在していて良いものでしょうし、

 

それぞれ、

 

別の体系として、

取り扱って、明確化して行く事が望ましいものだろうし・・・・・・、

 

それは、

あくまでも、

 

現実的な、指標の扱いとして、

 

あまり、

 

細分化し過ぎない方が、扱い易くはなる事でしょう。

 

 

 

細分化しても良いのですが、

 

現実的な、指標としては、

 

あくまでも、

 

ひとまとまりの体系として、

 

「この要素を達成する事によって、成長が存在する。」って認識でしょうか。

 

 

 

そうやって、

ある種の、

ボカシでもあり、

 

細分化された情報としては、

ひとまとまりのゲシュタルト=全体像として、

認識する事により、

 

その成長要素にコミットし、

 

「信仰。」する事が可能になるのです・・・・・・・!!

 

 

 

それをある意味、

 

「信仰。」して進行する事によって、

 

そこに、

 

計り知れない成長を期待する事が可能になる・・・・・・・って算段でもありますし、

 

まぁ、

 

ただただ、単純明快に言えば、

 

自分自身のブレーキを外しながら、

楽しんだり、充実する事もまた、

可能になる=没頭出来るとか、

 

安心して、無我夢中に入って行けるって塩梅でしょうね・・・・・・・。

 

 

 

 

まぁだけど、

 

その成長要素自体は、

ある意味、

 

現実的な流れによって、

 

春・夏・秋・冬のように、

 

朝・昼・晩のように、

 

移り変わって行くものでもありますから、

 

気に入った成長要素ってものは保持し、

 

趣味趣向として、

 

日々の生活でもあり、仕事のルーティーンの、

隙間隙間に、忍ばせて行く必要性があるのですが。

 

 

 

それは少なくとも、

 

論理的ど〜こ〜は、

取り敢えず、

脇に置いておいたとしても、

 

文学的、芸術的、エンタメ的には、

 

あらゆる要素に、

半分無理矢理にでも、

組み込んでいけるものとなるだろうし、

 

組み込んでいければ、

 

論理は、後からでも付いてくるものにはなってくるでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

し、

 

逆輸入=現実的な流れによって、

構築されていった論理の方が、

その、

 

趣味趣向に取り込まれて行く事もあり得るだろうし、

 

まぁ、

少なくとも、

 

別の仕事で、仕事を例えると言ったような・・・・・・、

 

外の揉め事を、

持ち込んでいくような悪手は、

 

回避可能にはなってくるでしょうね・・・・・・・。

 

 

 

それなら、

 

趣味趣向を持ってして、

仕事を例える方が、

 

余計な摩擦を巻き起こさないでしょうし、

 

そもそもとして、

 

周りの賛同ど〜こ〜じゃあ無くて、

 

まず、

 

自分自身が表現し、体現し、

結果を持って、また、

教えたり、表現するって感じでしょうか。

 

 

 

 

ま、

 

別の仕事での例えであったとしても、

 

その間に、

趣味趣向と言ったような・・・・・・・、

 

芸術的なもの、エンタメ的なものを挟む事によって、

それは可能にはなるのですが・・・・・。

 

 

 

まぁ、

それも、

 

お金のやり取りには、必ずしも付き纏う、

 

情報セキュリティの問題でもあるだろうし、

 

ある意味、

 

同じような業種であったとしても、

 

他じゃあ、セキュリティレベルが高い情報が、

別の仕事じゃあ、

なんてことも無い情報として、

扱われている事も、

多々ありますから、

 

その情報自体がど〜こ〜じゃあ無くて、

 

その情報の、構築の仕方の方にこそ、

価値観ってものが、存在するのだろうし、

 

そりゃあ、

 

他の仕事で例えるって事自体が、

ある意味、

 

あらぬ疑いの目を掛けられる原因にもなるだろうし、

 

何処が、地雷になるかどうか、

理解不能には成りかねないものともなるでしょうから・・・・・・・(^^;)

 

 

 

 

その為にも、

 

「自分磨き。」や、「趣味趣向。」と言ったようなものが、

活用でき得るし、

それは、

 

お金を稼ぐ為の行為っていうよりかは・・・・・・、

 

自分自身の、お金や時間を使って、

行う行為であるのが、

相応しいものとはなるかと。

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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