どもども。
今年のおみくじは、
10番(サッカーで言えば、司令塔とかエースナンバー!!、
しかし、ただのおみくじの数字に過ぎない・・・・・・)で、
去年とおんなじで、
中吉でした、
キンジです。
努力ってものは、
基本的に、
人とか環境等からの働きかけによって、
何かを頑張るってことを、
指し表すものではあります。
また、
夢中ってものは、
これまた基本的に、
何かに実際に、取り掛かる事によって、
それに集中することによって生まれるものでもあり、
人からの、客観的な視点の上では、
「それが努力なのか??」
もしくは、
「それが無我夢中状態なのか??」って問題は、
良くも悪くも、
判別不可能なものでもありつつも、
それを、客観的に、
明確化するプロセスにおいて、
結局は、
そこに、存在しうる、
足下に当たるであろう・・・・・・・、
価値のある、無しを見て判断するしか、
その判断のしようが存在しないだけに、
あまり、
客観的な判断を、推奨するものではありません。
何故ならば、
その判断プロセスにおいて、
絶望が生まれるものでもあり、
逆境が生まれるならともかくも、
絶望は、個人的な世界観においては、
撲滅するに、越したことが無いから・・・・・・・とも、
言えることでしょう・・・・・・・!!
即ち、
「それが努力であるのか??」
もしくは、
「夢中であるのか??」って問題は、
各々の、
個人に問われた問題でもありつつも・・・・・・、
これも補足を入れるとすれば、
努力であるからいけないとか、
夢中であるから正解とか、
そういった類のものでは無いものなのかも知れませんよ・・・・・・??
それはまた、
どちらか一方の視点だけであれば、
視点が偏るものでもあり、
物事を考察していけば、
そこには、
必ず、
努力的視点と、夢中的視点ってものが、
見えてくるのも当たり前でもあり、
むしろ、
習慣化する為に必要となってくるのは、
どちらかと言えば・・・・・・、
努力の方が、必須にはなってくるものなのでしょう・・・・・・・!!
・・・・・・・が、
努力だけに頼り切っていると、
それは、
人の称賛を得るには、
あるに越したことが無いものではありますが、
ある意味、
自分とか、個人の視点を無視した上での、
効率化が図られた視点となり、
それの行き着く先は・・・・・・・、
自分とか、個人的見解の元においては、
誰一人、
実現不可能な答えが、導き出されるものとも成りかねませんし、
誰でも、
究極的には、理論の上では、
実現可能には成りますが・・・・・・、
「誰でも良い。」
ってものと、成りかねないものと、
なってしまうことでしょう・・・・・・・・。
だからが故に、
夢中でもあり、無我夢中ってものが、
必要となるものでもあり、
そこには、
少なくとも・・・・・・・、
「誰でも良い。」なんて存在せずに、
適性が存在する(趣味趣向の向き不向き)だろうし、
その無我夢中の適性において、
キャラクター性が、
出来上がって行くものとも、
言えるものなのかも知れません。
まぁ、勿論、
そこに反映される、投影されるキャラクターってものは、
勿論、
偽りなき自分自身でもあり、
これまでの、生い立ちで培ってきた、
自我とはなることでしょう。
・・・・・・・が、
その無我夢中になった行動の種類や、
専門性の種類や、
関連して行くストーリー性、世界観等によって、
自分自身のキャラクター以外にも、
その関連するキャラクター性ってものが、
その行動を通して、付随して行くものでもあり、
それによって、
ある種の・・・・・・・、
夢中でもあり、無我夢中コミュニティとも呼べるものが、
出来上がって行くものとも、
言えるものとなる事でしょう・・・・・・・!!
それは・・・・・・、
勿論、
本人の、ファンタジー的、
妄想の産物でもあるだろうし・・・・・・、
現実的に、
人や物事に、投影されて行くものでもあるし、
結果的に、
その本人にとっては、
現実の一部でもあるだろうし、
世界の一部と、なって行くものでもあるのですが・・・・・・、
それが全て、
自分自身の行動を通した、
夢中になれる何かであれば、
その現実の一部でもあり、
世界の一部自体が、
その本人にとっては、
現実でもあり、世界の中心となるのもまた、
「当たり前。」な事なのかも知れません。
だからこそ、
努力って概念よりも、
夢中って概念の方が、
より、
自分自身でもあり、
人を惹きつける側面がありつつも、
逆に言えば、
「人を選んでしまう。」側面もまた、
存在する・・・・・・・って事なのです。
・・・・・・・まぁ、
音楽で例えてみると、
努力=デスメタル的な要素でもあり、
夢中=よりキャッチーなフレーズでもあり、
少なくとも、
ポップス以上に、キャッチーさを持ったメロディでもあり、フレーズとも、
言えるものとは成りましょう・・・・・・!!
努力=デスメタル的な要素ってものは、
一見、聞いただけでは、
その良さってものが、
分かり難いものでもあり、
それを見聞きして、誰しもに伝わる部分ってものは・・・・・・・、
とにかく、
「やかましい。」って感じでもあり、
とにかく、
ハードなテンポ感でもあり、
ハードな演奏ではある事でしょう。
まぁ、
その他にも、
「言葉が汚い。」等も、
あるにはありますが・・・・・・・(苦笑)、
そればっかりでも無いでしょうから、
ここでは割愛します。
上記のような、
デスメタル的、ヘビメタル的でありつつも、
メロディー感ってものが、
気薄な音楽ってものが、
結局は、
より多くの人に受ける音楽であるとも言えますし、
世界でも支持され易い音楽ではある事でしょう。
何故ならば、
そこに存在する、
努力感ってものが、
誰しもに、伝わり易いものでもあり、
誰でも、理解し易いものでもあるからなのです。
単純明快に、
「頑張った感を、演出出来る。」
・・・・・・・と言うよりか、
実際に、
シンドイ音楽なのですよ・・・・・・・(苦笑)。
ある意味、
筋トレ的演奏が必要となるものだし、
それを演奏している人達も、
ボディビルダーに近いような、
マッチョな人達なのです。
そりゃあ、
「頑張った感を、より、演出可能になる。」こと請け合いではありますね・・・・・(笑)。
それを逆から言えば、
キャッチーなフレーズとか、
メロディラインが売りな音楽ってものにも、
勿論、
頑張った感=努力って視点が必要になるだろうし、
それの存在を、出来得る限り、
消し去ったものが、
所謂、
ポップミュージックでもあり、
「売れ線。」の曲でもある事でしょう。
・・・・・・・が、
これまた、
同じ事が出来れば、
「誰でも良い。」ものに、
成りガチなものではあるだろうし・・・・・・・、
「誰でも良い。」を回避するためには、
努力ってものは、
不可欠な要素にはなる・・・・・・って事なのでしょうし、
そのポップミュージック的な、
努力の視点を消し去った上での、
細かいキャラクター性の部分の、
ある意味、
乱数調整ってものを、
実際の人で行って、
その上手く行った実例を、
世に売り出しているのが、
所謂、
「売れているポップミュージシャン。」なのかも知れませんね。
それは、
「誰でも良い。」風には見える事でしょうが、
「その人以外にはあり得ない。」ものなのかも知れませんし、
それで上手く行く事自体が、
ある種の、
多くの選別が必要となるものでもあり、
多くの犠牲も必要となるものでもあり、
まぁ、簡単に言えば、
「真似出来ないし、恐れ多いから、別にいいか。」
って事なのでしょう・・・・・・(苦笑)。
そんな所を、
目指した所で、
即死が普通でしょうし、
それならば、
もっとキャッチーな世界を目指しつつも、
「頑張った感。」を、演出する為の、
スキルアップを図って行く方が、良いのでしょうね。
ある種の、
人を選別しつつも、
普遍性のある価値観=努力感でもあり、
頑張った感ってものを、積み上げて行くことと、
なる事でしょう・・・・・・!!
人を選別する=キャッチーさの相性の良さでもあり、
また、
夢中になれる適性でもありますし、
努力感も、もしかしたら、
その本人の、夢中になれる適性なのかも知れませんが・・・・・・・、
だからとは言っても、
その努力感ってものを、
全て、消し去る必要性なんて、
何処にも存在しないことでしょうね。
どちらかと言えば、
努力ってものは、
夢中よりも、弱い側面があり、
夢中になる事により、
どんどん、その努力感ってものは、
やっつけられて行く側面があるものなのでしょう。
だからこそ、
その努力感を、保護するって意識が必要となるものでもあり・・・・・・、
それは、
物事を始める際には、
必須になってくるものでもありつつも・・・・・・・、
ある種の、
思考停止するものでもあり、
「とにもかくも、取り掛かる。」と言ったような、
泥臭さもまた、
必須にはなってくるものではありますね・・・・・・・。
夢中とか、無我夢中ってものは、
あくまでも、
そのプロセスにて、
存在が確認されるものでもあり・・・・・・・、
取り掛かる前にも関わらず、無我夢中・・・・・・なぁ〜〜〜〜んて事は、
存在しなくて、
それは、
ある意味、
その取り掛かる前に、行っているプロセスにて、
無我夢中になれる要素が、存在しているって事に、
他なりません・・・・・・!!
ある意味、
そっちの方に、
「その本人の適性が存在する。」って事なのでしょう。
だからが故に、
取り掛かった上で、
その物事に、
夢中になれる保証なんて、
存在しないだけに、
実際に、夢中になれた行動の方が、
保険のように大切となり、
その行動を踏まえた上での、
実践ってものが、重要な要素にはなる事でしょう・・・・・・・!!
・・・・・・と言うのも、
努力感ってものは、
まぁ、
価値の計りとなるものでもあり、
より良く生きる為には、
必要不可欠な要素にはなりますが・・・・・・・、
その本人でもあり、個人的主観においての、
努力って視点は、
その本人を、どんどん、
蝕んでいく側面があるものでもあり(簡単に言えば、老ける、老いる)・・・・・・・・、
だからが故に、
夢中でもあり、無我夢中になる事によって、
その努力って視点を、
確実に、やっつけて行く必要性がある・・・・・・・って事なのです。
まただからこそ、
努力は夢中には勝てないものではありますが・・・・・・・、
だからとは言っても、
完全に、撲滅していては、
個人的にはそれで良くても、
客観的には、
状況が好転して行かないってことが起き、
ゲーム的に言えば、
弱い敵キャラが、
いつまでも、絡んでくる状態になっちゃいガチで(苦笑)、
「難易度調整がぬるくなる代わりに、努力感が薄くなる。」
って事が、
現実的に、起こってくるのです・・・・・・・・。
勿論、
難易度調整が難し過ぎると、
そこには、
絶望しか生まれないでしょうが・・・・・・・、
難易度調整が、ぬる過ぎてもまた、
それは、
ある種の、
絶望の種となってしまうものでもあり・・・・・・、
簡単に言うと、
「ツマラナイ。」とか、
「おもんない。」って状態に、
陥るもんでもありますから・・・・・・・、
ある程度の、
それこそ、
努力が必要になる難易度調整、
即ち、
逆境を紡ぎあげれる、
ゲーム性ってものを繰り返すって事が、
望ましいものでもあり、
そもそもとして、
ゲーム性ってもの自体が、
ある種の、
同じ事だけの繰り返しでは無く、
ある一定の、
PDCDサイクルのように、
成長のプロセスを、循環するものですから、
それを繰り返す事によって、
細かい部分の、乱数調整も可能だろうし、
それを何パターンか保持し、
循環させて繰り返す事によって、
飽きるって事自体が、
そもそも、
あまり、起こらないものでもあり、
まぁ、
それにももしかしたら、
人の趣味趣向による、
適性ってものが、存在するかも知れませんが・・・・・・・、
だからこそ、
自分の適性に近しい人の為だけでもあり、
自分の適性に近しい人の為にこそ、
そのプロセスの循環を、
推し進めて行く事が、
望まれるものなのでしょうし、
そのプロセス自体に、
夢中や無我夢中要素が存在しうるのであれば、
それに関連させる形態で、
努力要素を、混ぜ合わしていけば良いのでしょう。
それによって、
即ち、
ゲーム的でもあり、ゲーム性においても、
キチンと、努力が存在する事の証明となり、
努力感を演出する事が可能になり、
人に価値提供が可能になるし、
ゲームだけじゃあどうかは解りませんが・・・・・・(笑)、
少なくとも、
他にもスキルを応用する事によって、
筋トレになったり、
料理が上手くなったり、
仕事自体が捗ったり、
文章が上手くなったり、
運動したり、動く事自体に、楽しみを見出したり・・・・・・・etc
と言ったような事が起こる訳ですね。
まぁ、
それは、
ゲームじゃあ無くて、
スキルを通したゲーム性ってもんなのでしょうが。
だからこそ、
スキルを行使する為には、
有無を言わせない(自分も他人も)
ある意味、
思考停止の行動をする努力ってものが、
不可欠にはなるものでしょうが・・・・・・・・!!
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。
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