Gerd AltmannによるPixabayからの画像
新年、明けましておめでとうございます。
今年も、
私、キンジと、自分軸哲学を、今後ともよろしくお願いいたします。
あ、さて、
でわ、本日のお題目に入って参りましょう!!
ゲシュタルトって言いますと、
所謂、物事の全体像の事を、
言い表す言葉でもあり、
概念の事ではありますが、
そのゲシュタルトってものは、
要するに、
出来上がりと、崩壊ってものを、
絶えず、繰り返しているようなものではあります。
即ち、
何かを行動とか、段取り等で、
構築して行く事によって、
予め、想像の上であったとしても、
そこに存在していたであろう・・・・・・・、
ひとまとまりの全体像=ゲシュタルトってものが、
それが、例え、
無数に存在していたとしても、
その個人の世界観でもあり、
その個人の、
その時、その場所にての、
今ここの、ひとまとまりの全体像ってものは、
崩壊して行くものでもあるのです・・・・・・・!!
それは、
・・・・・・・・まぁ、
ある種の、
妄想的な話ではありますし、
狸の皮算用的な話でもありますが・・・・・・、
我々は、そもそもとして、
何もしていない状態であったとしても、
絶えず、思考する生き物でもありますし、
だからが故に、
言葉が大切になるものでもあり、
言葉が存在しない所には、
思考ってもの自体も、
存在する事が、不可能なものとはなっている事でしょう・・・・・・!!
まぁ、
非言語の状態であれば、
それは、
潜在意識とか、無意識とか、
呼ばれる状態にはなってくるのでしょうが、
それを、再現性を持たせて、
有効的に活用する為にこそ、
キチンと、
顕在意識として、
言語化しておく必要性がある・・・・・・って事でもありますね??
また、
何かを始めるとか、
そもそもとして、
行動=アクションを起こすって事自体が、
ゲシュタルトを構築するって事でもあり、
ゲシュタルトを構築し始めるって事にもなり、
それによって、
元々存在していたであろう・・・・・・・、
何かのゲシュタルトを、
崩壊させて行く事と、
同義ではあります・・・・・・・。
だからが故に、
何か、新しい物事を、
新しい場所で、新しい人達と始めたからとは言っても、
そこで、
好き勝手出来る事じゃあ無いってことは、
薄々と、理解可能なんじゃあ無いでしょうか・・・・・・・??
即ち、
何か、新しい物事を、
新しい場所で、新しい人達と始めるからこそ、
護りの意識が大切になるものでもあり・・・・・・・、
逆に言えば、
自分自身が、大切にしていきたいような、
自分自身の趣味趣向に沿った、
行動習慣ってものを反映させつつ、
その新しい物事に、
相対する必要性が出てくると・・・・・・・言うことなのですよ。
それは、勿論、
今後も、
自分自身の習慣として、
自分自身の趣味趣向に沿った物事の、
行動を続けて行く覚悟の現れとも言えるものだろうし、
その新しい物事に、
反映させておく事によって、
その行動習慣の、
行き来にかかるであろう・・・・・・・、
コストの軽減を、省エネ化するものともなる事でしょう・・・・・・・・!!
また、
だからこそ言いますが・・・・・・・、
本当の意味での、
変革とか、革命的な事を、
行う為には、
今まで、ずっと続けてきた環境でもあり、
今まで、ずっと続けてきた物事において、
新たな風を、取り込んで、
新鮮味が再構築されるように、
新たな取り組みに、取り掛かって行く必要性が、
出てくるものとはなる事でしょう。
それ即ち・・・・・・・・、
何か、新しい物事を、
新しい環境で、新しい人達と行うって事自体は、
そもそもとして、
変革とか、革命の為の、
下準備に過ぎないものでもあり、
そこで、
自分自身の趣味趣向に沿ったナニカしらと、
融合を果たす事が、不可能であれば、
その変革とか、革命自体も、
絵に描いた餅に、過ぎないものとはなる事でしょうし・・・・・・、
そもそもとして、
その新しい物事自体にも、
軽い、非日常体験くらいの、
エンタメ的な価値しか、見出す事が、
不可能にはなるものではありますね・・・・・・・・・??
まぁ、
普段、激務な仕事に取り掛かっているような人達にとっては、
そのような、
所謂、「息抜き。」のようなものも、
必要にはなってくるでしょうが・・・・・・、
まぁそもそもとしては、
そのような、
「息抜き。」が必要に感じる人達の方が、
かえって、
そのような、
軽い、非日常体験さえも、
足が進まないものでしょうし、
中々、思い切って、飛び込まない傾向が、
あるものではありますね・・・・・・・。
ま、ベストで言えば、
その場限りに過ぎない、
軽い、非日常体験よりかは、
自分自身の趣味趣向に沿った、
行動習慣を反映可能な、
新しい経験値を求める方が、
行動自体に無駄が無く、
確実な、自己投資とはなって行くものなのでしょうが。
それらを踏まえて、
逆に言えば・・・・・・・、
何か、辞めたい物事が存在している場合においても、
上記で挙げてきた、
ゲシュタルトの構築と、ゲシュタルトの崩壊って概念が、
必須になってくると同時に、
それを意識せずに、
「どうやって、何かをマネジメントして行くのか??」と。
勿論、
仕事等であれば、
仕事の環境、構造、仕組み等や、
上司や同僚の監視の元に、
・・・・・・少なくとも、
ゲシュタルトの構築ってものを、
意識せずにも、
「やらなければ、首になる。」とか、
「やらなければ、ペナルティが存在する。」と言ったような、
罪と罰の意識の元で、
行動による、ゲシュタルト構築ってものを、
否が応でも、やらざるを得ないものとはなる事でしょう・・・・・・。
・・・・・・・が、
だからが故に、
自分自身の、マインドってものが、
奴隷化してしまうもんでもあり、
実質的には、
仕事に必要となってくるのは、
個人の技術や、スキルと言ったようなものでしょうから、
個人の技術や、スキルってものが、
奴隷のようになったとしても・・・・・、
マインドまで奴隷になって、
自分自身の、セルフイメージを、
自分自身で、貶める必要性なんて、
何処にも存在しないものではある事でしょう・・・・・・・!!
まぁ、
上記で、
「個人の技術やスキルが、奴隷のようになる。」とは言いましたが、
その奴隷の主ってものは、
ある意味、
自分自身であるしょうし、
神とまでは言わなくても、
天使や悪魔の奴隷と、言えるものとはなる事でしょうね。
これがある意味、
神の奴隷とまで行きますと・・・・・・、
ある種の、
独善性が、目立ってくる事によって、
人と調和しずらくなり、
これまた、逆に言えば、
神の名の元に、
無責任な、暴力的な戦争に、発展して行くものとはなる事でしょう。
・・・・・・・まぁ、
戦争は言い過ぎだとしても、
暴力的な戦い、
即ち、
スポーツで言えば、
退場もののファウルや、誰かを、
再起不能にする為の、
汚いファウルの方に、意識が向きガチとなり、
その分野の土俵においては、
たいした技術や、スキルを、
発揮出来なくなって行く事には、
なりガチです・・・・・・・・!!
個人の技術やスキルってものは、
絶えず、戦いでもあり、
戦場でもあり・・・・・・・・、
ある意味、
全ての人が、
同じ土俵でいる限りは、
戦い合うライバルであるものではあります。
だからこそ、
その分野にての、
技術やスキルで、闘う必要性があるものでもあり・・・・・・・、
その技術やスキルってものは、
一見、戦っているように見えていても、
「誰かの為。」でもあり、
「顧客の為。」となっているのが、
常であるべきであり、
そのルールからはみ出てしまえば、
それは、
暴力的な戦いに、過ぎなくなってしまうものではある事でしょう・・・・・・!!
・・・・・・・・と言うのも、
下手に、
ゲシュタルト崩壊させた先に待っているのは、
新しい新世界では無く、
剥き出しの本質が、物を言う世界でもあり、
それ即ち、
サバイバル的な、暴力的な、
戦争の世界観ではある事でしょう・・・・・・・・。
その世界観は、
誰しもが、
回避するに越したことが無いと同時に、
回避する為にこそ、
手軽な、分野ごと、
専門性ごとの、
個人の技術やスキルによる、
代理的な戦いってものが、
必須にはなってくるのです。
その戦いでもあり、
戦場ってものは、
それが、代理的であれば・・・・・・、
別に、
「魔界的でもあり、悪魔的でも、地獄的でも構わない。」ものでもあり、
変に、
綺麗事を振りかざして、
神とか天使的じゃあ無くても良いものなのでしょう・・・・・・・!!
その技術でもあり、スキルを持ってして、
人間的であれば良いものでしょうから。
変に、
綺麗事だけでも、
もしくは、
暴力団的でも、
それは、
天使か悪魔的ともなり、
人間的に言えば、
どちらか片方だけじゃあ、
何かが足らない状態に、なってしまいガチなものなのでしょう。
即ち、
天使も悪魔も、両方が必要になるものでもあり、
そのせめぎ合いの内にこそ、
「人間臭さ。」ってものが、
存在する事になり、
その、
「人間臭さ。」ってものの中に、
「自分でこそ、自分ならでは。」ってものもまた、
存在して行く事には、なってくるのでしょうね。
また、
逆に言えば、
同じような技術やスキルを行使していたとしても、
もしくは、
同じような技術やスキルを行使しているからこそ、
「その人らしさ。」ってものが、
滲み出てくるものとなり、
細かい自分らしさってものには、
それ単体では、
意味なんて存在しないだろうし、
もっと言えば、
細かい自分らしさってものは、
それ単体で存在する事によって、
何かのゲシュタルトを、崩壊させてしまう、
害悪なものとなってしまいガチです・・・・・・・。
良い意味合いでの、
「その人らしさ。」ってものは、
細かい微差の領域のものではありますが、
それは単体じゃあ無くて、
正に、
ひとまとまりの、ゲシュタルト=全体像と、
なっているものではありますから。
それはまた、
その本人は、
もしかしたら、
フォーカスが、細かい部分にも、
向かっているかも知れませんが・・・・・・、
それは、ある種の、
無意識なものでもあり、
客観的にも、有用性を見出す為にも、
細かい部分はおいておいて、
手軽でもあり、足軽な部分にこそ、
フォーカスを向け続ける努力があるからこそ、
細かい部分の、
乱数調整が上手く行く事によって、
その人らしさでもあり、
その人ならではの、
魅力を発揮出来ることが、
可能にはなっているのでしょう・・・・・・・・!!
それは、
ある種の、数稽古ではありますが・・・・・・・、
自分自身の、趣味趣向を熟知しているからでもあり、
自分自身の、趣味趣向を追求し続けた結果が、
結果的に、数稽古となり、
その人らしさでもあり、
その人ならではと言ったような、
魅力となっているものなのでしょうね。
それはまぁ、
自分自身の、今後も続けて行きたい行動習慣にて、
発揮されれば良いものでしょうから、
新しいチャレンジの方にこそ、
必要となるものであり、
今まで続けてきたような物事にては、
本当の意味での、
「違い。」でもあり、
「創造性。」を発揮出来うるような・・・・・・・、
世界観を変化させる取り組みが、
必要にはなってくる事でしょう・・・・・・・!!
上記で、
新しいチャレンジと言いましたが、
要は、
新しいチャレンジ=新しい環境、新しい物事、新しい人達にての、
行動を推し進めるものであり、
今まで続けてきたような物事にては、
乱数調整的に、
同じ事を行っているようで、
また別の結果を、出して行く必要性が出てくるものかと。
まぁ、
結果的には、
上記の2種類の行動ってものは、
両方共が、
近づいて行くものでありながら・・・・・・、
その両方共が、
行動そのものに、意味合いをもたらすと言う意味では、
同じものではありますし、
そう、目指して行くものとはなる事でしょう・・・・・・・!!
また、
行動=ゲシュタルト構築としますと、
それによって崩壊するゲシュタルト=過去の行動となる事でしょう。
その過去の行動ってものが、
より、
自分自身の、趣味趣向に沿っていた場合において、
それに関連しかねない、
今ここの行動ってものには、
細心の注意が必要となるものでもあり、
その過去の行動の、
抽象意識ってものが、
ガイドラインのような働きを、
するものとなる事でしょう。
また、
その逆の、
その過去の行動ってものが、
とるに足らない行動でもあり、
「もう、こりごり。」と思っちゃうような行動が、
ベースにくる場合においては、
なんなんでしょうね・・・・・・・・(苦笑)、
それこそ、
また別の、
ガイドラインに相応しい行動を重ねる事によって、
上書きするしか無いのでしょうね・・・・・・・・(苦笑)。
まぁ、どちらにせよ、
「もう、こりごり。」と思っちゃうような自分に、
問題が存在する訳でもありますし、
それもまぁ、
「己を知らない。」自分が悪いとも言えますし、
自分の趣味趣向くらい、
手軽か足軽かは、
どっちゃでも良いから、
明確化しておくだけでも無く、
習慣化しておけよ・・・・・・・・・と。
僕自身、
応用性、流用性とか良く使いますが、
要は、
無理矢理にでも、習慣化しているからこそ、
勝手に、応用、流用されて行くものでもあり、
それによってしか、
出来上がって行かない、
ゲシュタルト=全体性ってものが、
存在しうる・・・・・・・・って事なのでしょう・・・・・・・・!!
・・・・・・・・あ、
ちなみに、
同じ字を書き続けると、
何の字か解らなくなってしまいガチな問題は、
字を書く時、
細かい細部の部分に拘って書き続けると、
自分でも、字の形を忘れてしまいガチになっちゃいますね・・・・・・・・。
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。
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