剣の形代(つるぎのかたしろ) 120/239 | いささめ

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 建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。

 建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命されて貴族の一員に列せられた際、源頼朝は息子への配慮を感謝すると同時に、幼帝への譲位を「甘心」しないとの書状を送っていることから、建久八(一一九七)年一二月時点で既に、鎌倉ではそう遠くない未来に後鳥羽天皇が譲位をし、同時に院政を開始するとのコンセンサスが誕生していたことが窺える。

 関白罷免となった九条兼実が以前のように源頼朝と書状のやりとりをしていたことは九条兼実の日記にある。関白辞任後の九条兼実の日記については現存する記事は少なくなってしまっているものの、その残り少ない記事の中から九条兼実と源頼朝との書状のやりとりの内容を調べてみると、年明けの建久九(一一九八)年一月四日に九条兼実の元に届いた書状の中で、後鳥羽天皇の退位は決定事項であり、問題は誰が帝位を継ぐべきかという局面になっていることが、九条兼実と源頼朝との間で共通認識として成立していたことが確認できる。

 注意していただきたいのは、誰が帝位を継ぐかという共通認識は形成されていないことである。

 九条兼実はここではっきりと、土御門通親の養女が産んだ皇子は、村上源氏の女性を母とする皇子ではなく、僧侶の能円と藤原範子との間に生まれた女性を母とする皇子であると記している。僧侶の娘であるというだけでも皇位継承権が下がるのに、妻と子を捨てて平家都落ちに帯同した能円の孫となると為仁親王の皇位継承権にも疑念が生じるのだ。九条兼実によれば僧侶の外孫が天皇になるなどという前例など無く、自らの養女とすることで前例の無いことを強行しようとしている土御門通親を手厳しく非難している。

 その上で九条兼実は、後鳥羽天皇の二人の兄、すなわち、守貞親王と惟明親王の二人のどちらかが皇位を継承すべきであるとしている。後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子であり、第一皇子は壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇、第二皇子の守貞親王は安徳天皇の擬似的な皇太子として平家とともに行動させられた後、鎌倉方に救出されて帰京したものの、帰京時にはもう第四皇子が後鳥羽天皇として即位していた。平家物語によると第三皇子の惟明親王と第四皇子の尊成親王のどちらが帝位に相応しいかを考えた後白河法皇が、尊成親王のほうが兄と違って躊躇うことなく自分の膝の上に座ったことから尊成親王を帝位に就けることを決め、後鳥羽天皇として即位したというのが後鳥羽天皇即位時の状況だ。

 

 

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