剣の形代(つるぎのかたしろ) 111/239 | いささめ

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 京都で九条兼実が失脚したことを鎌倉の源頼朝が掴んでいなかったわけはなく、何らかの形で京都のコンタクトを取る必要も感じていた。土御門通親や丹後局高階栄子とのコンタクトを続ける必要も忘れずにいたのは無論、九条兼実不在の朝廷の在り方として可能性の高い天皇親政、ないしは新たな院政に向けて動き出す必要も感じていた。それに、この時点でもまだ源頼朝は娘の入内を断念したわけではなかった。

 源頼朝は九条兼実を通じて京都に影響力を及ぼすことに成功していたが、九条兼実を少しずつ見限るようになり、建久六(一一九五)年の上洛時にはもう、九条兼実の次を見据えた動きを見せるようになっていたが、ただ一つ、後鳥羽天皇に対する接触は弱かった。全く無かったわけではないが、天皇親政や院政復活が実現した場合に、後鳥羽天皇が鎌倉幕府へのそれなりの配慮を見せるほどの接点ではなかった。

 このタイミングで鎌倉幕府が後鳥羽天皇とつながりを持つとした場合、ベストは源頼朝の娘である大姫が後鳥羽天皇のもとに入内することであるが、多くの貴族が源頼朝の娘の入内を快く思っていない状況下では大姫の入内を前面に押し出すことはできない。かといって、後鳥羽天皇と政治的な意見が合うという理由で後鳥羽天皇と源頼朝とが協力し合うようになるとは思えない。自身の親政を経て近い未来の院政を意図する後鳥羽天皇と、鎌倉幕府という従来には存在しなかった組織を構築した源頼朝とでは、互いの求めているゴールが違いすぎる。

 ポイントとなるのは、後鳥羽天皇が多趣味の人であるという点である。政治家としての意見は合っていなくとも、趣味の世界で思いを合わせることのできる人は数多くいる。そういった人物を鎌倉幕府から送り込むことは、後鳥羽天皇と鎌倉幕府との接点の構築につながる。

 では、そのような人物が鎌倉にいるのか?

 いた。

 難波頼経の息子、飛鳥井雅経がその人だ。嘉応二(一一七〇)年生まれであるから、源平合戦の混迷を少年期に目の当たりにしているし、木曾義仲の劫掠の被害も被っているし、多感な時期に源義経が活躍を見せて京都に平穏を取り戻したことも実体験している。そのせいか、一〇歳にして叙爵するという貴族としてのエリーコースを歩んでいながら、早々に源義経に心酔し、源義経と行動を共にしようとしている。もっとも、これは父である難波頼経の影響も少なくないとも言える。ただ、父は後白河院との接近のために源義経を利用したのに対し、飛鳥井雅経のほうは後白河院ではなく心酔という形での源義経への接近であった。

 

 

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