剣の形代(つるぎのかたしろ) 110/239 | いささめ

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 失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである。三条長兼は唯一の例外なわけではなく、多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に呼び出されるようになっている。

 この件について、三条長兼は面白い記録を残している。

 建久七年の政変を境にして、後鳥羽天皇のもとに情報が数多く集まるようになったというのだ。

 藤原摂関政治においては、摂政や関白である藤氏長者のもとに情報が集中するようになっていた。日記のタイトルが御堂関白記であるにもかかわらず、生涯に亘って一度も関白に就かず、摂政就任もやむを得ぬ事情と割り切った上での短期間の就任であった藤原道長ですら、内覧として情報を優先的に入手する権利は決して手放そうとしなかった。このことは何かと藤原道長を理想としてきた九条兼実も同じであり、摂政や関白の当然の権利として自分の元に情報が届くようにしていた。もっとも、源頼朝のように独自の情報網を構築するのではなく、既存の情報網の超転移自分を組み込むという形であったが。

 院政期となると、同じような情報の集中は藤原摂関家ではなく院に向かうようになった。ただし、こちらは非公式な情報収集である。院司を利用しての情報収集であり、情報網は藤原摂関家と併存していたと言える。藤原摂関家の場合は国家統治機構を利用しての公的な情報収集、院の場合は独自の情報網構築という違いがあり、この二つは併存可能だ。

 では、建久七年の政変後の後鳥羽天皇はどうか?

 天皇でありながら独自の情報網を構築しつつあったのだ。

 これの意味するところは二つしかない。

 一つは天皇親政、もう一つは院政への布石。

 九条兼実の政権を倒すことは多くの人が同調したものの、九条兼実の政権の後の姿をどのようにするかについては全く同調できていなかった。ある者は九条兼実の後釜に自分が座ることを考え、ある者は自分が事実上の議政官の執政者として君臨することを考え、ある者は天皇親政や将来の院政を考えた。九条家以外の藤原北家が考えたのが一番目であり、土御門通親が考えたのが二番目であり、中下級貴族の考えたのが三番目であった。そして、後鳥羽天皇自身も三番目を考えた。

 大同団結で現政権を打倒した後も大同団結が続く可能性は低い。多くはこのように三々五々に分かれて相互に対立するようになる。それが相互の派閥の統治者としての能力を高め、より優れた結果を出すよう研鑽しあうなら問題ないが、多くの場合は足の引っ張り合いを繰り返すようになる。

 公卿補任にある建久七年の政変に伴う人事は三名しか確認できなかった。例年であれば年明けの一月の除目に大幅な人事変更があるのでそれまで待った可能性もあるが、建久八(一一九七)年の公卿補任を眺めてもそこまで大きな変化は無いように見える。数名の昇格や昇叙があっただけだ。

 とは言え、その数名が問題であった。公卿補任には記されていないが一月一一日に土御門通親の子である土御門通宗が蔵人頭に就任し、こちらは公卿補任に記されている記録であるが一月三〇日に関白近衛基通の子である近衛家実が一九歳で権中納言になったのである。権力を握ろうとしている人が自分達の派閥の未来のキーパーソンを朝廷の中枢に送り込んだのだ。

 

 

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