剣の形代(つるぎのかたしろ) 103/239 | いささめ

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 先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記さねばならない。

 壇ノ浦の戦いで平家が敗れてから十一年目。鎌倉に刃向かう平家は滅んだということになっているが平家の残党は探せばまだ存在していた。もっとも、かつてのように朝廷の中枢に君臨して政権を操るレベルの強大さではなく、存在はするものの国政に何ら影響を与えることのない、それでいて迷惑極まりない犯罪集団として、平家の残党が存在している。

 彼らは後鳥羽天皇の帝位も認めずにいる。壇ノ浦で身を投げて命を落とした安徳天皇こそが正式な天皇であり、安徳天皇が行方不明になっているために後鳥羽天皇が帝位を受け継いでいることは認めているものの、安徳天皇が戻り次第帝位を戻すべきだとも考えている。

 後鳥羽天皇ですらこうなのだから、鎌倉幕府の権威についてはもっと認めない。鎌倉幕府の御家人達のことを討伐すべき存在と考え、彼らが治安維持を担当していることすら認めないし、彼らに対して何をしてもそれは全て許されることと考えている。こうした動きは鎌倉幕府のほうでも不完全ながら掴んでおり、平家の残党が犯行の兆しを見せているらしいという情報ならば掴めている。情報収集の重要性を理解している源頼朝のもとに集められるだけの情報が集まっているので、把握できる限りの情報に基づいて指示を出すことにできている。ただし、あくまでも把握できる限りの情報であって、平家の残党の正確な所在地や正確な作戦まで掴めているわけではないのが実情である。

 源頼朝が平家の残党の情報を集めていることは平家の残党の側も理解している。鎌倉幕府の御家人達に向かって反抗心を示そうとしても、具体的には誰かにターゲットを絞って暗殺しようとしても、返り討ちに遭うのは目に見えている。

 権勢を失って一〇年以上が経過した。過去に一度でも権勢を手にしていた経験があったならばともかく、物心ついたときには流浪の身で、気づいたら鎌倉幕府の権勢の前に逃げ続けなければならない人生を過ごしているとなった、それも、好転する兆しが全く見えないという人生を過ごしているとき、未来に希望が見えないままこのあと数十年も人生が続くと考えてしまったらどのような行動を見せるか?

 平知盛の次男である平知忠は、平家都落ちの際に両親と離されて伊賀国にいる乳母子の橘為教のもとに預けられ、そのまま伊賀国で成長していた。

 その平知忠が、建久七(一一九六)年六月二五日に一条能保への襲撃を企てているとして、法性寺付近で検非違使の捜索を受け、観念して自害したのである。平知忠の生年は治承四(一一八〇)年生まれとする説と安元二(一一七六)年生まれとする説があり、前者であるなら享年一七、後者であれば享年二一となる。多くの人はこの事件で平家の残党がまだ健在であったこと、その平家の残党を鎌倉幕府はまだ警戒していることを思い知り、誰のおかげで今の平和が存在しているのかを知ることとなった。

 ただし、一つの悲劇も生み出した。映像はおろか写真など存在しないこの時代、討ち取られた人物が間違いなくその人物であると確認するためには、その人物の顔を知っている人に討ち取った人物の顔を見せるしかない。すなわち、遺体のもとにその人を連れて行くか、あるいは、遺体をその人のもとに連れて行くしかない。そして、その遺体は全身とは限らない。

 平知忠の実母である治部卿局こと武藤明子は高倉天皇の第二皇子である守貞親王の乳母であり、夫の平知盛とともに守貞親王の養育をしており、守貞親王とともに平家都落ちに帯同した。そして迎えた壇ノ浦の戦いで治部卿局は夫とともに壇ノ浦に身を投げたものの、彼女は鎌倉方に救出されたために夫と死に別れ、その後、守貞親王が上西門院統子内親王の養子となった事から、治部卿局は守貞親王の乳母として上西門院に仕えた。

 その治部卿局の前に、亡き息子の首が運び込まれてきたのである。彼女は変わり果てた息子の姿に涙を流したとある。

 

 

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