剣の形代(つるぎのかたしろ) 102/239 | いささめ

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歴史小説&解説マンガ

 九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期するようになっていた。それまでの九条兼実の独善的な行動を支えてきた源頼朝はもう九条兼実を選ばず、慈円のおかげで制御できていた比叡山延暦寺も怪しくなってきている。

 だからこそ、周囲の思惑とは逆に九条兼実自身は関白の職位を手放さないことに執心するようになった。仮にここで九条兼実が関白を降りたら、実弟の太政大臣藤原兼房でもなく、九条家の後継者となる内大臣九条良経でもなく、現時点では無官である前摂政近衛基通が関白として復帰することとなるか、あるいは元摂政松殿基家が関白として復帰することとなる。この双方とも、九条兼実にとってはいかなる理由があろうと避けなければならない選択肢である。

 その一例として、時間は多少前後するが、建久七(一一九六)年三月二三日の出来事が挙げられる。この日、三条実房こと左大臣藤原実房が病気を理由に左大臣職を辞職し出家することを選んだのである。通常であれば花山院兼雅こと右大臣藤原兼雅の左大臣への昇格など大幅な除目が繰り広げられるものであるが、九条兼実は左大臣を空席とし、右大臣花山院兼雅に議政官の指揮を執らせることにしたのである。一見すると理不尽に感じるが、九条兼実にとっては理不尽どころか有効な戦略であった。あえて空席とすることで近衛家にも松殿家にも圧力を加えることに成功したのである。忘れてはならないのは、前述の通り、九条兼実の息子である九条良経が内大臣に就いていることだ。空席を埋めようとした瞬間に九条良経は内大臣から右大臣へと出世することとなる。この無言のプレッシャーは大きなものである。

 見限れるようなことがあってはならないと九条兼実が考えていても、周囲はもう九条兼実を見限っている。かといって貴族達は、九条家と藤原摂関家の当主の座を争う近衛家や、木曾義仲と手を組んだことで勢力を失うことになったものの無視できぬ存在である松殿家を、九条兼実に代わる勢力として選ぶことはなかった。かといって、既に手に入れている地位の高さもあって、そろそろ姿が見え始めていた後鳥羽天皇退位後の院政に人生を掛けるつもりにはなれなかった。

 彼らが選んだのは、丹後局高階栄子と土御門通親、そして、その背後の勢力として期待できる園城寺、さらに、九条兼実から協力関係先を乗り換えつつあった鎌倉幕府といった新興勢力であった。つまり、藤原摂関家以外の勢力が呉越同舟状態で集まるという集団が構築されてきたのである。

 九条兼実がこの状況を黙って見過ごすわけはなかった。九条家による藤氏長者の継承が頓挫したとしても、九条家の勢力の基盤の拡充を果たすことは無意味ではない。鳥羽天皇の皇女である八条院障子内親王は病に倒れたのを機に養女三条姫宮に所領の多くを譲ったが、残りの所領を猶子とした九条良輔、すなわち、九条兼実の三男に譲与させることに成功したのである。このときの九条良輔は、数えで一二歳、満年齢だと一〇歳になったばかりであり、貴族としてのデビューもできていない。しかし、この段階で一定の資産を獲得することは将来への布石として十分に機能する。

 また、九条兼実への反発を軸として集結している勢力が、実際に統治者としての能力を保持しているのかという問題もある。現状の政権に対して不満を抱いた末に政権を交代させるとどのような地獄が待っているかは、二〇〇九年の日本人がやらかした失敗を思い出していただければ十分である。特に丹後局高階栄子の権勢の寄って立つところが、自身の統治者としての能力ではなく亡き後白河院の威光であるところは、九条兼実にとって絶好の攻撃材料であった。蔵人大夫橘兼仲の妻が後白河法皇の霊が憑いたと称して、後白河法皇を祀る社を建ててその経営のために国を寄せるように求める事件が起きたとき、丹後局はこの言葉を信じて国費による負担を検討させようとしたが、九条兼実は非現実的として退けている。

 

 

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