熊谷直実が八月一〇日に鎌倉を訪れたのは吾妻鏡に記載されているとおりであろう。仮に吾妻鏡の記載が捏造であったとしても、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺をこの頃に建立したことの記録が残っていることから、この時期に熊谷直実が鎌倉方面に向かったのはおかしな話ではない。つまり、鎌倉幕府の御家人たちはかつての同僚が僧侶となって鎌倉方面に向かっていることを知っていたし、その前に熊谷直実のことを思い出させる出来事も起こっていたことは間違いない。
忘れてはならないのは、この時期の鎌倉幕府の御家人達は京都から戻ってきたばかりであること、ついこの間まで京都とその周辺におよそ三ヶ月に亘って滞在していたこと、そして、出家した後の熊谷直実は各地を転々としていたものの、鎌倉幕府の面々が京都にいた頃に、熊谷直実もまた京都にいたことである。
上洛していた源頼朝が、あるいは鎌倉幕府の御家人たちが、僧侶となった熊谷直実と京都内外で会っていたことの記録はない。記録はないが、会っていたとしてもおかしくない。これは、かつての所領争いの末の御家人大量離脱を思い出させるに十分であり、しかも所領争いそのものは現時点でもなお続いていることを思い出させるに十分であったということだ。
熊谷直実は、鎌倉を訪れたのではなく、鎌倉に呼び出されたと考えたらどうなるか?
鎌倉幕府の御家人達に思い出させてしまった所領争いを、完全とは言えないものの、多少は和らげる効果を持ったであろう。
それだけではなく、八月二八日には職務怠慢を理由に陸奥国や出羽国の地頭の複数名を罷免しているのである。緩んだ綱紀を正したと言えばそれまでだが、いかに情報の重要性を理解している源頼朝とは言え、誰が、どのように、どのタイミングで情報を送り届けているのかとなると、不明瞭なところがある。
その不明瞭さが、漠然としたものであっても垣間見えたらどうなるか?
恐ろしいと感じるしかない。何しろ源頼朝の目が鎌倉から遠く離れた地にも届いているのだから。
その上でもう一つ、考えなければならないポイントがある。
熊谷直実は出家して僧侶となったし、僧侶として各地の寺院を転々とする日常を過ごすするようにもなった。熊谷直実の記録は日本各地に残り、今もなお、熊谷直実は語り継がれる存在となっている。
もしそれが、源頼朝の策略だとしたら?
各地を転々としていてもおかしくない僧侶が実は源頼朝とつながっていたらと考えると、冷静でいられる話ではなくなるだろう。
そしてこうも考えるはずだ。
熊谷直実ただ一人だけではない、と。