剣の形代(つるぎのかたしろ) 85/239 | いささめ

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 京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実力は否応なく広まることとなった。

 その上で、以下の記録を読んでいただきたい。

 建久六(一一九五)年五月二二日、源頼朝、参内。九条兼実と面会をする。

 建久六(一一九五)年五月二三日、源頼朝、六条殿に向かった後、後白河法皇が住まいとして構えていた法住寺へ参詣。

 二日連続で参内と参詣をしただけと考えるかもしれないが、源頼朝は五月二〇日に京都を出発して当日中に四天王寺に到着し、翌日の二一日には京都に戻っている。その後で休むことなくスケジュールを詰め込んで平然としているのだ。

 そのことについて源頼朝は何も言わない。

 何も言わないでいるが、これだけのプレッシャーを与えれば効果は万全だ。

 五月二四日、重源上人が高野山にいることが判明し、源頼朝は中原親能を高野山に派遣することとした。

 これは単に重源上人ただ一人の問題ではない。もはや日本国の誰であろうと、鎌倉幕府の、そして源頼朝の元から逃れることなどできないと判明したのだ。

 しかも、源頼朝は重源上人との面会が終わらぬ限り鎌倉に戻らないとしたのだ。京都内外の多くの人にとって鎌倉幕府の面々は厄介な存在と映るようになっていたが、一つだけ希望があった。京都での用が済めば鎌倉に戻るのは間違いないのだから、こうなるとどんなに重源上人の行動を支持する人であっても重源上人に一刻も早く高野山から戻ってきてもらって源頼朝と面会してもらうことを願うようになる。

 それまで源頼朝と会うことを避けていた重源上人も、このような権勢者の捜索を受けていると理解したら面会せざるを得なくなる。五月二九日癸丑。重源上人が修行を途中で打ち切って京都に現れ、源頼朝との面会を果たした。このときの面会の内容を吾妻鏡は伝えていないが、一つだけ、嫌味ともとれる記載も残している。

 来月の祇園御霊会の厄払いが大変なことになるだろうと。

 何しろ重源上人が源頼朝と会わないでやり過ごそうとした理由が、源平合戦をはじめとする戦乱で源頼朝をはじめとする鎌倉武士の面々が多くの血を流してきたからというものなのだから。

 

 

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