剣の形代(つるぎのかたしろ) 84/239 | いささめ

いささめ

歴史小説&解説マンガ

 建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮かべて南西へと進むのである。

 吾妻鏡はそのことについて、四天王寺にまで陸路で進むと、途中経路になってしまった荘園は鎌倉幕府の行列を歓待しなければならず、その負担はかなり大きな物となってしまう。このことを考えると水路で一気に南西に向かった方が途中の負担が小さくて済むという配慮であったとしている。

 その側面は無視できぬものがあったであろうし、源頼朝のことだから負担軽減を前面に打ち出した自分達の行動を広く喧伝するであろう。

 しかし、もっと大きな理由がある。

 規模とスピードだ。

 五月一八日というのは源頼朝が四天王寺に参詣すると表明した日付である。

 そして、実際に出発したのは五月二〇日。

 鎌倉幕府の御家人達が源平合戦でどれだけの軍勢を組織して行軍したか、奥州合戦に向けてどれだけの軍勢を組織して行軍したか、その両方とも話としては聞いている。また、東大寺再建供養へ向かうのにどれだけの規模の軍勢が京都から奈良に向かったかも目の前で見ている。

 ただ、そのどれもが事前に通知している上での軍勢であり、今回のように発表した翌々日に出発するというのは信じられない話である。しかも、徒歩や騎馬ではなく船だ。海ではなく河川であり、また、この時代の河川交通の中でもっとも発達していた淀川水系であることも差し引いても、僅か二日で軍勢を移動できるだけの船を揃えることができるというのは、その財力と権勢を見せつけるに十分であった。

 おまけに、五月二〇日の卯刻、現在の時制に直して午前六時頃に京都を出発し、その日の正午には四天王寺に到着している。現在なら京都駅から天王寺駅まで鉄道で一時間ほどあれば到着するが、この時代の感覚で行けば一日がかりの旅程なのが普通だ。それがわずか六時間で到着した、それも一人や二人ではなくそのまま戦場に向かうと言われても通用するレベルの軍勢が京都を出発してから六時間で到着したというのは、脅威というレベルを超えて恐怖である。

 以下がそのときの鎌倉幕府の面々の軍勢だ。

 

先陣 畠山重忠 千葉師常
村上基国 新田義兼
安房高重 所基重
武藤頼平 野三成綱
加藤景廉 土肥惟平
千葉次郎 小野寺道綱
梶原朝景 糟谷有季
宇佐美助茂 和田義長
狩野宗茂 佐々木経高
千葉常秀 土屋義清
後藤基清 葛西清重
佐原義連 比企能員
下河辺行平 榛谷重朝
源頼朝
水干 源頼兼 越後守頼房
大内惟義 足利義兼
山名義範 中原親能
毛呂季光 大江広元
小山朝政 八田知家
大友能直 藤原季時
三浦義澄 梶原景時
後陣 北条義時 小山朝光
関瀬義盛 奈古義行
里見義成 浅利長義
武田有義 南部光行
武田信光 村山郎義直
北条時連 加々美長清
八田知重 梶原景季
阿曽沼親綱 和田義実
佐々木盛綱 大井実春
長沼宗政 所朝光
氏家公頼 伊東成親
稲毛重成 宇都宮信房
千葉胤正 足立遠元
和田義盛

 

 ここに名の挙がった人物だけで軍勢を構成したわけではない。各々が軍勢を引き連れているだけでなく、ここには名が挙がっていないがここには北条政子をはじめとする源頼朝の家族に加え、御家人達の家族もいる。それだけの人数が、しかも、武人だけではなく女性も子供も交ざった人達の集団が、わずか六時間で京都から四天王寺までやってきたのだ。

 その恐怖は京都内外の全ての人に伝わる恐怖であったが、その中でも群を抜いて恐怖に感じたのは受け入れる側だ。

 最初に鎌倉幕府の面々がやって来ると聞いて身構えていたら、出発したという話が来るか来ないかというタイミングで鎌倉幕府の面々が到着したのだ。

 四天王寺としては、名目としては参詣しに来た人を迎え入れるだけなのであるし、寺院における源頼朝らの振る舞いもごく普通の参詣者と代わらぬものがあったが、その規模とスピードは恐怖でしかない。

 記録だけを追いかければ、鎌倉幕府の面々は四天王寺に一泊して翌日には京都に到着したとある。

 そう、記録だけを追いかければ……

 

 

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村