剣の形代(つるぎのかたしろ) 75/239 | いささめ

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 このことは源頼朝も当然ながら知っている。

 式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを拒否した。仏門に関係する人間として、源平合戦で数多くの人を殺害した人とは会えないというのがその理由だ。源頼朝としても実際に数多くの血を流させたことは否定できず、会えない代わりということで、奥州合戦に使用した甲冑、鞍、三頭の馬、金銀を贈った。これはこの時代の感覚で行くと個人相手への最上級の贈答品だ。

 しかし陳和卿は、甲冑については大仏殿建立の釘代として東大寺に納め、鞍のうちの一つを祭典用の乗り換え馬の鞍として東大寺に寄付し、それ以外はすべて源頼朝に返却した。

 この物欲の無さに感心したというのが吾妻鏡における源頼朝の態度の記載であるが、表向きは感心であっても実際には不満であったとするしかない。

 既に記した通り、東大寺の復旧記念式典はこれが二度目である。東大寺の再建を祝う式典は本来であれば建久六(一一九五)年であって建久元(一一九〇)年ではなかったのだが、後白河法皇は大仏再建のタイミングで強引に式典を開催させた。ただ、強引ではあっても法皇が直々に筆を手にして大仏に目を描き込むという特別なイベントであったこともあり、その時代の主立った面々が集った壮大なイベントになった。

 一方、建久六(一一九五)年の式典は本来あるべきタイミングで開催する式典なのであるが、参加した人はどうしても五年前と比べてしまう。そして、どうしてもイベントの中心を担っている人物が誰なのかを比べてしまう。すなわち、後白河法皇と源頼朝との比較だ。

 後白河法皇に対する評判は多々あるが、皇位に就いてから退位して院政を取り仕切った皇族であることは疑いようのない事実である。本心はどうあれ、誰もが皇族として敬意を払っている。

 一方、源頼朝は上流貴族ではあっても皇族ではない。それに、源頼朝のような上流貴族など数多くいる。九条兼実のように藤氏長者として圧倒的権威を持った貴族ですら、他の貴族からの絶対的敬意を払われるコンセンサスなど存在しない。おまけに、源頼朝自身がどんなに否定しようと京都の貴族達は源頼朝を武士として扱う。武士は貴族より格下の存在であるというのはこの時代の共通認識だ。

 その人物が五年前の後白河法皇のポジションに居座ってイベントを取り仕切っていると考えたとき、このことを愉快に感じる人は、特に自分のことを源頼朝よりも格上と自負する人達の中にこのことを愉快に感じると人は、そうはいない。

 

 

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