覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 152/272 | いささめ

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 四つと記しておきながら三つしか記していないと思うかもしれないが、四番目はしっかりと存在する。それも、何よりも最優先で対応しなければならないこととして存在している。

 京都の急速な治安悪化がそれだ。

 源義経がいた頃は検非違使としての源義経が警察権力を働かせることができた。

 北条時政が京都に派遣されていたときは、強引ではあるが強盗を許可無く殺害したことで治安の回復の第一歩を記せた。

 しかし、北条時政に代わって京都に派遣された一条能保は、貴族に対しては源頼朝の期待に応える対応はしても、治安維持と治安回復については役割を果たさなかった、いや、果たせなかった。源義経は朝廷から正当な権利を与えられた検非違使であり、北条時政は正当な権利を有さないながらも独自の軍事力を行使できた。それに対し、一条能保は検非違使でもないし独自の軍事力も持ち合わせていない。一条能保の他には中原広元も京都に滞在しているが、中原広元は京都復興の責任者であって武力行使のために派遣された人物ではない。そもそも中原広元も一条能保と同様に文人官僚であって、武力とは無縁の人物である。

 文治三(一一八七)年八月一二日、後白河法皇から一条能保に対し、武士を動員して治安維持に当たらせるよう依頼が来たという正式な情報が源頼朝の元に届いたのだ。

 源頼朝はかなり早い段階から京都の治安悪化を危惧していたが、その一方で、後白河法皇や朝廷との駆け引きもしていた。

 たしかに自分の代理として一条能保を派遣しているが、一条能保はあくまでも貴族であり武力行使ができる人間ではない。京都の貴族相手であれば一条能保は源頼朝の代理を問題なく務められるが、前述のように一条能保が独自の軍事力を行使することはない。軍事力を行使する意思がないのではなく、軍事力そのものが絶無なのである。

 ベストは朝廷が、セカンドベストは後白河院が、何らかの形で合法的に源頼朝の指揮下にある軍勢を京都に招き入れることであり、そのために京都に派遣する人員として畠山重忠は計算できる人物であった。しかし、家臣が土地を横領したというスキャンダルに見舞われてしまっては畠山重忠を京都に送り出すことはできない。少なくとも現地調査をするという名目で時間を稼ぎ、その上で根も葉もない噂であったとする結論を出したならば畠山重忠は無罪放免となって京都に送り出すこともできる。

 無罪放免の前例は梶原景時と原宗行能が作ってくれた。梶原景時は事実を認めた上で自分の行動が何ら問題のない正当なものであったとし、原宗行能は自分のあずかり知らぬところで問題が起こっているので容赦なく容疑者を処罰してくれと願い出ている。畠山重忠も梶原景時や原宗行能のような態度を示せば問題なく京都へ送り込めるのだ。

 治安悪化という一刻の猶予もならない事態であることを踏まえても、このときの源頼朝の決断は遅かった。しかし、決断した結果、京都の想定を超える答えを出すことに成功した。

 畠山重忠を選ぶことはできなかったが、千葉介常胤と下河辺行平の両名を送り出したのである。なお、後白河法皇が一条能保に私的に依頼したのみで朝廷からの正式な依頼でないため、源頼朝も一条能保を通じて、旧知の仲である権中納言吉田経房に向けて千葉介常胤と下河辺行平の両名と、軍勢の使用する馬を送り届けたという体裁になっている。

 

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