覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 151/272 | いささめ

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 結論から言うと、畠山重忠に対する処罰は九月まで引き延ばされた。安田義定のときと違い、畠山重忠の家臣についての実情を調べなければならなかったことに加え、他の問題も源頼朝に課されていたのである。その問題の解決策として畠山重忠は計算できる人物であったのだ。

 このときの源頼朝に課されていた問題は四つ。

 一つは、壇ノ浦に沈みながら未だ見つからぬ三種の神器の一つである天叢雲剣あまのむらくものつるぎ

 二つ目は、いつ対決することとなってもおかしくない奥州藤原氏との関係。

 三つ目は、美作国で発生した領地争いである。

 この三番目であるが、梶原景時と原宗行能が最勝寺や尊勝寺といった寺院の領地を勝手に横領しているという訴えがあり、それに対し梶原景時と原行能の両名がそれぞれ弁明としての陳状を提出したのである。厳密に言えば梶原景時からの書状の日付は文治三(一一八七)年八月五日、原宗行能からの書状は同年八月八日である。

 吾妻鏡によると両者からの弁明は以下の通りである。

 まずは梶原景時からの書状であるが、尊勝寺が保有する荘園のうち美作国の林野(現在の岡山県美作市栄町)と英多保(現在の岡山県美作市英多)の二箇所について、梶原景時の家臣が地頭として派遣され、年貢徴収をはじめとする実務に携わっていることを認め、何ら違法な点はないとして尊勝寺が要求する地頭の交替については拒否している。なお、この書状を作成する前に何度か尋問があったようで、既に詳細は述べているために新たな弁明を書状に記すことはないとしている。

 原宗行能からの書状は、最勝寺が若狭国今重(現在の福井県美浜町)に所有している荘園を原宗行能が横領しようとしているという訴えに対し、自分はそもそも横領しようなどという意思はないと否定している。原宗行能の名を語って勝手に土地を横領しようとしている不届き者がいることは認め、そうした不届き者直ちに逮捕され処罰されるべきとしている。

 ちなみに、この両名を梶原景時と原宗行能と記したが、梶原も原宗も苗字であって姓ではない。両名とも正式な姓を持っており、書状には平景時と惟宗行能という正式な姓名を自身の署名として用いている。

 

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