覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 149/272 | いささめ

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 もっとも、鎌倉側のほうにも京都から見下されるに値する理由がある。源平合戦の勝者となった鎌倉の御家人達がやらかしていたのである。

 文治三(一一八七)年五月二六日、安田義定の代官が伊勢国の斎宮寮田を横領したことが発覚した。伊勢神宮に関連する田畑であるが、所有権となると朝廷直轄の領地である式田であるため、平家没官領だとか、木曾義仲や源義経といった国家反逆者の所領を没取したのではない。これは冗談では済まされない不祥事だ。安田義定の代官の所業であって安田義定自身の犯罪ではないが管理監督者責任になる。

 この知らせが鎌倉に届いたときに安田義定は鎌倉におり、ただちに源頼朝の尋問が始まった。安田義定にしてみれば何の知らせもないときにいきなり飛び込んできた部下の不祥事であり、どういうことかと問われても答えようがない。自分は鎌倉にいて現地で何が起こっているかなどわからず、現地からの情報があり次第責任をとると安田義定が答えたものの、それは源頼朝が納得できる答えにはならない。

 源頼朝が安田義定に下した、そして、朝廷に届くように発した宣告は、安田義定に与えた平家没官領の没収である。安田義定にしてみれば部下の勝手なやらかしでの連帯責任であるが、だからと言って異議を唱えることはできない。安田義定にできるのは源頼朝の裁決に従うことだけである。

 安田義定は鎌倉方の武士の一員であるが、そのスタートは甲斐源氏であり、富士川の戦いの後に遠江国を本拠地とするようになり、木曾義仲とともに上洛して途中までは木曾義仲の軍勢の一員であった。だが、最後は木曽義仲と袂を分かって源義経の率いる軍勢に加わり木曾義仲を殲滅させ、その後の一ノ谷の戦いにおいても鎌倉方の軍勢の一員として参戦し、平家を討ち破るのに協力している。

 その後の安田義定は文治三(一一八七)年まで遠江国に住まいを置きつつ、鎌倉と遠江国とを往復する暮らしをしていたようである。甲斐源氏の一翼を担っているはずの安田義定が武田信義から独立した一つの勢力を築くこととなった上に、木曾義仲と行動を共にしたことがあるなどの問題もあったが、基本的には甲斐源氏の参加ではなく源頼朝に従う御家人であり、かつ、鎌倉と京都を結ぶ中間地点にあたる遠江国を根拠地としていることは、源頼朝にとって好都合な存在であった。また、源義経が行方不明となったという第一報を聞きつけて直ちに遠江国内での源義経捜索を命じるなど、源頼朝への忠誠という点でも疑いようのない人物であった。もっとも、悪く考えれば、源頼朝に忠誠を誓うことが武人としての自身を存続させるための唯一の手段であったとも言える。何しろこの人は甲斐源氏でありながら甲斐国と袂を分かち、遠江国にてゼロから自分の軍団を作っているのだ。ルーツを辿れば長元三(一〇三〇)年まで遡ることができる甲斐源氏という歴史と伝統を持つ巨大組織から独立して遠江国に新たな軍事集団を作り上げるのだから、源頼朝に逆らうなどという選択は到底許される話ではない。

 なお、責任を取らせるために源頼朝は安田義定に与えた所領を没収したが、それで自動的に伊勢国の斎宮寮田の横領問題が解決することは無い。というより、安田義定については源頼朝も知っているが、安田義定に仕えている武士の一人一人のことまで源頼朝まで把握しているわけではない。極論を言えば、悪事に手を染めても源頼朝の元に知らせが届く前にどうにか対処すれば無かったことにすることもできる。理論上は。

 それを許すような源頼朝ではない。後述するが、安田義定に対して下した処分が早すぎるのだ。これは、かなり早い段階から源頼朝が安田義定の家臣についての情報を集めており、情報が届き次第処分を下す準備を整えていたからとするしかないのだ。

 源頼朝は第二弾として、文治三(一一八七)年六月二〇日に、伊勢神宮の領地を不法占拠している地頭に対して直ちに不法占拠した土地から出ていくことを命令しているが、その中の文面で、退去しないなら不法占拠している者の名を鎌倉に届けることとなると記している。不法占拠している武士の立場に立てば一縷の望みに思えるが、このままでは名を鎌倉に届けるという脅しは不法占拠している武士の名が源頼朝の元に届いてまだいないことを意味するわけではない。もう名前が届いているが現時点ではまだ知らないということにしているという脅しである。ここでもし、本当に名前が届いてしまったら、その後で待っているのは鎌倉から送り込まれる刺客との、負けるとわかっている対決である。

 

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