覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 148/272 | いささめ

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 この里内裏である閑院の復旧工事を、源頼朝が資材を投入し、人員も用意して再建すると発表したのだ。源頼朝は既に東大寺再建工事について木材を提供すると公表しており、これで源頼朝が私的に手がける国家施設の復旧工事については二例目となる。

 いかに源頼朝が権力を手にしたと言っても、普通の貴族と比べて突出した資産を持つわけではない。源頼朝の自由に操ることのできる資産となると従二位の位階を持つ貴族としては平凡とするしかない。源頼朝個人に仕える御家人の多さ、すなわち、動員できる人数となると突出しているが、それとて近衛家と九条家が手を取り合い、徳大寺家をはじめとする他の藤原氏の家が束になれば、源頼朝の出せる以上の人数を動員することは不可能ではない。つまり、源頼朝は、藤原氏がその気になればやってやれなくはないことを代わりに遂行したのである。

 国家予算でどうにかするには時間を要することを私財を投じて遂行することは珍しくない。藤原良房まで遡ることのできる藤原氏の伝統と言ってもよいし、藤原氏が専横を極めているという批判を受けていようと政権を握り続けることができたのは、皇室とつながりを持ち続けたことよりも、その瞬間に起こった問題を、国政に図るのでは時間が掛かってしまうと判断して私的に解決してきたからである。それが政治の有様として正しいかと言われると、原理原則としては正しくないが、政治の目的である庶民生活の向上という価値基準で考えれば、正しい。

 その正しいことを、藤原氏ではなく遠く離れた鎌倉にいる源頼朝がやった。たしかに再建の陣頭指揮を執るとして中原広元が上洛しているが、中原広元は源頼朝の代理でしかなく、京都にいても工事責任者として職務を果たしているだけである。

 このときの京都の庶民感情は相反するものがあった。平家都落ちの前から源頼朝は京都の希望であり、木曾義仲に侵略されていたときは源頼朝が京都を助けに来てくれるという期待もあった。その源頼朝がまさに今、京都を復興させるために私財を投じているのである。その一方で、実際に木曾義仲から京都を解放したのは源頼朝ではなく、源頼朝の代理人という扱いであったにせよ源義経である。また、京都の人達の認識の中では平家討伐における最大の功労者であるのも源義経である。源頼朝という人は、その、京都のヒーローである源義経を破滅に導いた悪役である。結局はデマだと判明したが、文治三(一一八七)年五月三日には、源義経が先月三〇日に美作国で殺害されたという話が伝わり、多くの人が自分達のヒーローである源義経が亡くなったことを嘆き苦しんだことの記録も残っている。このようなデマが受け入れられたのも、源頼朝をどこかで受け入れられないという京都での世論があったからである。その中には、名目上は遠く安全なところにいて命令だけしていた人間が今更恩着せがましく何かしようとしていることへの義憤、本音を言えば首都の人間が地方の田舎者に助けられたという屈辱感がある。いかに源頼朝が一三歳まで京都で過ごし、伊豆に配流となっても京都の貴族としての矜持を持った生活をしていても、また、現時点で従二位の貴族としての自己を成立させていても、源頼朝は京都の人間とはみなされなくなっているのだ。

 

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