平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~ 119/359 | いささめ

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 ここで全成ぜんじょうについて記すと、源義朝の三男が源頼朝であり、全成ぜんじょうは源義朝の七男であるから、源頼朝にとっては異母弟との再会となる。

 全成は幼名を今若と言い、母の常磐御前が平家のもとに出頭した後、出家することを条件に命を長らえることができたという経緯を持っている。平治の乱のときの全成は八歳、上の弟である乙若丸は五歳、末弟の牛若丸はまだ生まれて間もない乳児だ。その幼き少年が運命に翻弄されて、父の死を目の当たりにし、母と離れ離れにさせられ、兄たちとも弟たちと別れさせられ、平安京の南東にある醍醐寺に連れて行かれて出家させられた。平家に言わせれば国賊たる源義朝の子なのに命を助けてあげたではないかと言うであろうが、そもそも源義朝を国賊扱いし、子供であるというだけで罪を着せるだけでも許されざることで、命を助けたぐらいで恩を売りつけるなど図々しいにも程があるというのが全成の言い分だ。ちなみに、同じ言い分は源頼朝も使っている。

 ただし、平家に感謝するわけにはいかなくとも、全成には平家のおかげで手にすることができた資産があった。醍醐寺の持つ真言宗醍醐派のネットワークだ。醍醐寺そのものが真言宗醍醐派の総本山であり、全国各地の真言宗醍醐派の寺院を統べるネットワークの頂点に位置している。弟の牛若丸、いや、元服後の名前である源義経と違って全成が僧体のままでいたのも、醍醐寺の持つ寺院のネットワークをそのまま利用するためだ。比叡山延暦寺や園城寺、奈良の興福寺と比べれば規模は小さいが、寺院勢力としての醍醐寺は決して無視できるようなものではない。さらに言えば醍醐寺は村上源氏や宇多源氏の庇護下にある寺院であるために藤原氏とも平家とも距離を置くことができている。

 なお、全成が関東地方で挙兵した兄のもとに向かうと告げて醍醐寺を脱走して関東地方へと旅立ったとき、醍醐寺とその周囲では全成の身の安全を危惧する声とか、勝手に抜け出したことへの憤りとかの声はなく、ただただ安堵の声が聞こえた。よほどの悪僧であったのだろう、醍醐寺の僧侶であった頃の全成のアダ名は「醍醐の悪禅師」。とにかく暴れ回って周囲に迷惑を振り回し続けたくさんの被害者を生んでいたらしく、醍醐寺から出て行って関東地方に行ってくれただけで喜びの声が出たのだ。醍醐寺とその周囲に住む人たちとしてはこのまま醍醐寺に戻ってこないでくれと願うばかりで、以仁王の令旨に従う程度で全成の身を関東地方に留めておいてくれるならば、源頼朝に同調して反平家で起つなどどうと言うことない話であった。

 

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