平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~ 118/359 | いささめ

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 月が変わった治承四(一一八〇)年一〇月一日、駿河国で一つの動きが見られた。駿河目代である橘遠茂のもとに甲斐源氏が駿河国に向けて侵攻しつつあるとの情報が入り、橘遠茂はただちに軍勢を奥津、現在の静岡市清水区興津の付近に集結させて侵攻する甲斐源氏を迎え撃つことにしたのである。ところが、それから一二日間、甲斐国も駿河国も何の動きも無かったのである。動きを見せないのではなく、見せることができなかったと言うべきだろう。

 一方、隅田川東岸に陣を張る源頼朝のもとには大ニュースを伴う動きが見られた。一人の僧侶が訪れたのである。醍醐寺の修業僧であるその僧侶の名を全成ぜんじょうという。僧侶が僧兵となって源頼朝のもとを訪問したというだけであれば特にニュースにはならなかったであろう。しかし、醍醐寺から僧侶がやってきたとなればニュースになる。何と言っても京都から東海道、東山道、北陸道へと向かうときは必ず醍醐寺のすぐ近くを通るのだ。その醍醐寺から僧侶がやってきて源頼朝のもとを訪問したとなれば、源頼朝討伐軍の様子と、その行軍路の様子という貴重な情報を源頼朝の元に届けることとなる。討伐軍とこれから対峙するにあたっての貴重な情報源だ。もっとも、討伐軍が出発するはるか前に醍醐寺を出発しており、八月二六日には関東地方に到着していたことが判明したので情報源としては機能しなかったが、そんなことは源頼朝にはどうでもいいことだった。

 情報の重要性をこれ以上無く認識している源頼朝と会うのに際し、情報源として役に立つかどうかなどどうでもいいとはどういうことか?

 全成ぜんじょうの素性を知ればその答えは簡単に出せる。

 全成ぜんじょうは源頼朝の弟なのだ。源頼朝にとっては生き別れの弟との再会であり、感激のあまり皆が見ている前で涙を流して喜んだと吾妻鏡には記録されている。

 さらにニュースとして付け加えるべきは、全成ぜんじょうらを保護して源頼朝の陣営まで連れてきた人物が誰であるのか、そして、源頼朝がその人物をどのように処遇したのかである。「全成ぜんじょうらを保護」と書いたのは書き間違いでは無い。保護されたのは全成ぜんじょうを含む複数名であったのだから。

 全成ぜんじょうらを連れてきたのは、かつて大庭景親らとともに石橋山の戦いで源頼朝を攻め込んだ渋谷重国である。渋谷重国は全成ぜんじょうだけでなく、石橋山の戦いで敗れ敗走していた佐々木定綱と佐々木経高の兄弟もともに保護していたのである。その渋谷重国が源頼朝の側に加わるとして軍勢を引き連れてきたのだ。相模国渋谷荘、現在の神奈川県大和市を本拠地とする渋谷重国が源頼朝の側についたことは、川を挟んで対峙する江戸重長だけでなく相模国と武蔵国の武士たちの間に動揺を誘うに充分であった。

 武蔵国から相模国にかけての広大な所領を保持する渋谷重国が源頼朝の側で起ち上がったということは、源頼朝の勢力が武蔵国の奥深く、さらに相模国の中央部に至るまで浸透したことを意味する。しかも、渋谷重国の所領の南にある大庭御厨は、大庭景親の兄で大庭御厨を事実上支配している大庭景義が源頼朝側に立つとかなり早い段階で宣言している。武蔵国から相模国に掛けての一帯を所有している渋谷重国も源頼朝の側に加わったことで、現在の地図でいうと渋谷から大和を経由して藤沢に至る一帯が源頼朝の側の勢力圏になったことを意味する。武蔵国から相模国に掛けての一帯に点在する武士たちは、平家方に立っている限り周囲が包囲されて孤立させられることとなったのだ。

 

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