「只管打坐」「即心是仏」「生活禅」 | けいきちゃんのブログ

🌸曹洞宗教えー只管打坐(しかんたざ)

 

 ☆何も考えず坐禅を組み作務を尊ぶことが仏の姿

 

道元は、修行と悟りはまったく同じと説いている
 ☆臨済宗と曹洞宗は同じ坐禅でも方法が全く異なる

 *臨済宗が坐禅と公案を組み合わせた「公案禅」「看話禅」

 *曹洞宗は只管打坐を勧める「黙照禅」
 ☆只管打坐とは、

 *何の意義も考えず、何の目的も求めず、悟りすら求めず、無条件で

 *ひたすら坐禅することを意味する
 ☆道元は、修行と本証(悟り)は一つのものとした

 *悟りを目的、修行を手段と考えるのは間違とした

 *本証妙修とは、仏道にひたすら打ち込むこと

 *仏のはからいのなかにある自己を自覚すること

 *自己という束縛から解き放たれたところに仏性があらわれる

 *つまり、即心是仏である
 ☆只管打坐を実践すると

 *自己の束縛から解き放たれ、身体の痛みも心の苦しみも抜け落ち

 *身心脱落の状態になる

 *身心脱落の状態では、何のこだわりもなく、自己も存在せず

 *意識も流れるままにまかせきっているので

 *自らの仏性(仏の心)がおのずとあらわれてくる
 ☆道元の大著『正法眼蔵』には、釈尊の教えを信じて実践すれば

 *貴賤、賢愚、男女の区別なくそれは誰でも極められる
 *焼香、礼拝、念仏、看経などではなく

 *一心に坐禅に打ち込むだけで

 *釈尊の教えを学びとれる と記している
 ☆釈尊の教えを学びとる唯一の方法だと、道元は説いている
 *曹洞宗の坐禅は悟りのための手段ではなく、悟りそのものと見なされる

日常生活も修行の一環
 ☆道元はまた、禅の修行は坐禅だけに限らず

 *日常生活のすべてが修行だとも説いている
 *日々の生活におけるすべてが仏道修行に通じている
 ☆この教えも道元の実体験に由来する

 *老いた禅寺の典座(炊事係)が干ししいたけを買いにやってきた

 *道元が「老人なのに修行せずに典座をしているのか」と尋ねると

 *「お主は修行というものが何なのかわかっていない」と大笑いした

 *道元はこの言葉の意味がわからなかった

 ☆後日、その典座が道元の寺を訪ねてきて

 *「日常生活のすべてが尊く、世界をありのままに見ることが修行だ」

 *というのを聞いたとき、道元の目は開かれた

 ☆即ち「生活禅」である

 *曹洞宗では洗面や食事の仕方、睡眠などひとつ一つの行為に

 *細かく修行の作法を定めている

 *それらの行為すべてが仏の教えであり、尊いものとされている
 ☆仏の教えにのっとり、仏のような正しい修行

 *浄らかに生活をしていること自体が、そのまますでに仏なのである

                          (敬称略)

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「只管打坐」「即心是仏」「生活禅」

(「比べて分かる日本の仏教宗派」記事より画像引用)