内村鑑三 2(無教会主義・不敬事件) | けいきちゃんのブログ

🌸内村鑑三 2(無教会主義・不敬事件)

 

内村鑑三純粋で不器用な人生を送った

 ☆親友新渡戸稲造が社会的ステータスを高め、成功者となっていった

 *純粋で不器用に生きたのが内村鑑三

 ☆内村鑑三は、根幹のところで「武士の子」であった

 *忠義一徹の侍であつた父の影響で、幼少期儒教的教養を深めた

 *儒教の影響が内村鑑三の核心の部分に深く潜在し続けたといえる

 ☆内村の原点を理解する上で、印象的なシーン

 *札幌農学校に入学し、3カ月でキリスト教入信し洗礼を受けている

 *親の反対を押し切って結婚したものの半年で離縁

 ☆傷心から逃れるように私費で渡米、以後三年半、米国での留学生活を送った

 

内村鑑三「不敬事件」が契機となる

 ☆帰国後の内村は新潟の教師として赴任するが、宣教師団と衝突し三カ月で帰京

 *第一高等中学校の嘱託教員となり人生に展望が開けはじめた

 ☆突然の疾風怒濤に襲われ、人生は暗転する「不敬事件」

 *教育勅語に対し教員と生徒が「奉拝」する儀式がなされていた

 *内村は敬意を表する礼をしたが、深々と敬礼することはしなかった

 *これが国粋主義的生徒や教員の攻撃の対象となった

 *内村は、国賊・不忠の輩・外教の奴隷として排撃を受けた

 *事態の収拾はできず、退職届を出すこととなった

 ☆「不敬事件」は内村鑑三という人間にとり重要な転機となった

 *彼の名は全国に浸透し、宗教的指導者としての権威のようなものを確立した

 *「四面楚歌」の中で、自分の果たすべき使命を自覚する契機ともなった

 

内村鑑三の人生には、自ら苦難を招き寄せる傾向が付きまとっている

 ☆内村は、純粋であるが故に妥協することを知らず、自分の判断に拘ることが強い

 *内村は「感傷的、浪漫的、詩的」な世界を生きる強烈な個性を持った男

 ☆そのエネルギーに潰される多くの犠牲者を生む

 

内村鑑三の日本近代史との格闘

 ☆内村は雑誌『聖書之研究』『無教会』を創刊

 *神の創造した宇宙・天然をそのまま受け止める

 *自然的キリスト教の思想的中心に立ち始めた

 ☆内村は、日露非戦論、戦争絶対反対論を展開した

 *開戦論の立場をとっていた社主の黒岩涙香と快を分かつ

 *内村鑑三はジャーナリズムに戻ることなかった

 ☆無教会主義キリスト教の伝道者としての孤高の道を歩み続けた

 *武士の子供として生まれ、押し寄せる西洋化の潮流の中で

 *世界に雄飛し、近代日本の進路について深く考え抜いた内村の姿

 ☆世界は国籍不明のコスモポリタンを尊敬しない

 *大日本帝国に指弾され黙殺された内村鑑三を敗戦後の日本は思い出した

 *「不敬事件」や「非戦論」が戦後の風潮に合致したためであった

 *内村鑑三は文化人切手にも顔を連ねるようになった

                         (敬称略)                                     

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内村鑑三 2(無教会主義・不敬事件)

(ネットより画像引用)