『歎異抄』がいま熟読される理由 | けいきちゃんのブログ

🌸『歎異抄』がいま熟読される理由

 ☆司馬遼太郎や五木寛之も心酔
 ☆親鸞は「自力」で頑張らずに「他力本願」を説いた

 ☆その「他力」とは、阿弥陀如来の本願力

戦地へも無人島へも持参するならこの一冊『歎異抄』
 ☆『歎異抄』が静かなブームになっている

 ☆司馬遼太郎は

 *召集されて戦地に赴いたときも『歎異抄』を肌身離さず持ち歩き

 *後に「もし無人島に1冊の本を持参するなら『歎異抄』」と答えている

 ☆五木寛之は

 *小説『親鸞』で親鸞の生涯と教えに追った

 *主観的解釈だがと断ったうえで、魅了された理由を赤裸に語る

 

『歎異抄』とは

 ☆「歎異」とは「異を歎く」という意味

 *親鸞なきあと親鸞の教えが広まったが

 *異端を説くものが多く現れて混乱を招く

 ☆弟子の唯円が親鸞の正しい教えを広めるために書いたもの

 ☆『歎異抄』の危うさに気付いた蓮如上人

 *浄土真宗の大切な教本と尊重したが

 *「仏法の理解の浅い人に読ませてはならぬ」と禁書扱いにした

 *近代まで危険な書として封印されていた

 *一般に知られるようになったのは、明治維新から


⛳親鸞の他力と法然の「他力」
 ☆『教行信証』の中で親鸞は「他力本願」を説いている
 ☆一般的に「他力本願」は、人任せの意味で使われている
 ☆仏教でいう「他力」は安易な他人依存とは違う
 *「他力」というは阿弥陀如来の本願力
 ☆阿弥陀如来(弥陀)は全ての人を救うという誓いを立て

 *厳しい修行の下に悟りを得た仏

 *この誓いを弥陀の本願

 ☆仏教の「他力」とは弥陀の本願力で弥陀の力

 

⛳親鸞は、人間は悪人だという

 ☆弥陀はその悪人を救済すると誓われている

 ☆「悪人正機(人間が悟りを得る)」とは

 *悪人こそが弥陀の救いの対象なのだ

 ☆悪人ではない善人とは

 *自力におぼれている人で弥陀に全てを任すことができず

 *自分の力で幸せになろうとする人

 *自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気づかず

 *「他力をたのむ」心が欠けている善人のこと

 *親鸞は「自力作善」の人といって戒めている

 

⛳親鸞が説く「悪人正機」の神髄

 ☆「悪人正機」の真の意味を理解しようとするときに
 *親鸞が暴いた人間の本質と、社会の本質に向き合う
 ☆自分の「善」を他人に押し付けてはいけない

 ☆善人は自らの善を誇り、他力にたのむ心が欠けている
 *善人が自力で生きているうちは、弥陀に救済されない

 *他力を拠りどころにして生きる悪人こそ救済される

 

『歎異抄』の最大の誤解

 ☆「南無阿弥陀仏」と唱えていれば救われるという解釈

 ☆『歎異抄』の念仏の意味

 *人間に生まれて良かったと喜べる幸せに救われた人

 *感謝の心から唱えずにいられなくなるもの

 ☆悪いことをしても、ただ念仏さえ唱えていたら極楽に行ける

 *都合の良い教えだと誤解している人が多い
 ☆法然も弟子の親鸞も他力を説いた

 *親鸞の他力は絶対他力

 *法然の説いた「他力」は念仏を唱える専修念仏
 *親鸞は念仏さえも、他力本願がそうさせるのだと説いた

 

「自力」に拘らず「他力」を信じて生きる意義を説く
 ☆私たちは様々な願いを持ち、その願いに従って生きている

 *各自の立場を中心にした願いである

 *互いの立場がぶつかると衝突する

 *親鸞が「他力」を拠りどころで生きるということではない
 ☆自分の願いから最も遠いものが弥陀の本願である

 *自力を捨て、自分の立場を捨てる

 *親鸞の「自力」

 (捨てよというのは「自分の力」ではない「自力の心」)

 ☆自分の勝手な主張や自尊心を捨て、「他力」に感謝して生きること

                    (敬称略)
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⛳出典、『THEMIS8月』ネット他

 

 

『歎異抄』がいま熟読される理由

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