史記愛読者として、一応、記事にしておこう。
1位 李朴
2位 広武君李左車
3位 淮陰侯韓信
李朴(りぼく)は、廉頗藺相如(れんぱりんしょうじょ)列伝に登場する。
この列伝は、廉頗や藺相如をはじめとする5人の趙の国の武将の事跡を記している。
5人目に登場するのが李朴だ。
一言でいうと、いぶし銀の名将だ。
次に、2位は最後にまわして、3位の韓信を。
韓信は、背水の陣で有名な武将だ。
漢の高祖につかえて、その天下統一に抜群の貢献をした。
韓信の事跡は、淮陰侯(わいいんこう)列伝に記されている。淮陰侯は、韓信の最後の称号だ。
淮陰は、韓信の出身地だ。淮河(わいが。当時は淮水(わいすい)と言った。)という川の南側の一帯。中国の河は大きい。地面を削って、両岸に斜面ができる。太陽は南から照るので、東西に流れる河の北側の斜面には日が良く当たる。逆に、南側の斜面は日が当たりにくく、陰になる。だから、河の名前に陰がつくと河の南側、陽がつくと河の北側の地名になっていることが多い。山の場合は逆で、南側が日当たりがいい。だから、山の名前に陽がつくと南側、陰がつくと北側の地名になる。
なお、史記には、もう一つ韓信がいる。韓の国の王の信。韓王の信。略して韓信。
こちらは、韓信盧綰(かんしんろわん)列伝に事跡が記されている。淮陰侯韓信とは別人だ。
最後に、2位の李左車(りさしゃ)。
この人は、韓信の事跡をえがいた淮陰侯列伝にチョイ役として登場する。
韓信が超の武将陳余(ちんよ)を破ったとき、李左車は、陳余の部下だった。
陳余に作戦を進言するが、陳余は耳を貸さなかった。
陳余は、韓信にやぶれる。
そして、李左車は、韓信につかまった。
韓信は、李左車に今後どうすればいいかを尋ねた。
それに対して、李左車が答えた言葉が圧巻だ。
本当の智将とは、李左車のような人のことをいうのだと思う。
この李左車。
その後どうなったのか、すっごく気になるのだが、史記のどこにも再び現われない。
滔々たる歴史の流れの中に、身をくらませてしまっている。
できれば、この人の言行を、詳しく記録しておいてほしかったなぁと思わずにはいられない。