【 霊岸島界隈他 】洛中思案 | 徳川わ廣 のブログ

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「わ」、と書いてるのは「和」草書由来 徳川家和広は二人いますからね、もう一人は恐竜化石学者さん、

御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

(17s如月 )


 霊岸島の名は知ってはいるが、
茅場町と八丁堀の近くだろふが、どの辺りか了見がなかった
知れば なんだ、
普段に押し通りする在所だった、
上州高崎の史跡学者の方が良く知ってやがる、

 先立って、八丁堀同心屋敷跡や霊岸島に寄せて 鉄砲州稲荷 等をば見分した

霊岸島の 越前掘、今の 亀島川 には江戸に出入りする舟を吟味する、御船手奉行所があったそうだ、
舟に関係する者では
大阪冬之陣には徳川水軍の将として豊臣方水軍と戦った御船手奉行の向井忠勝の屋敷もこゝ霊岸島


(徳川軍艦船 絵巻因り)

越前掘の名の由来は越前松平家の下屋敷が有り其処から付いた、

その越前松平家か徳川家の御船の舳先(へさき)をば御神体にし屋敷に祀ったのが徳船稲荷神社  
先立っては見た、
見たが、
学者達は写真等撮って面白がっていたけど、
こちらは学問がないから 此の小さな社の何処が凄いのか、と思ったねひ
今でも其の御神体は大火も避けて残っているとの事だ、

さても 高尚純粋 歴史学門はお門違いの、門前払いして 情念から奉られた於岩稲荷をば
実見いたしゃしょふ

江戸の四谷、御家人の伊右衛門が妻於岩と住まいをばなしていた
伊右衛門は上役娘に惚れられ、子を為し、
妻於岩と離縁とし、上役の婿に相成った、
子も歩くほどの歳かさに成った

ある日

暮れ行く夕を縁側で煙草盆をば使っていた田宮伊右衛門

庭に 先妻の於岩が立たずんでいた


「…そ…此セ…来た……¶§何…」

何やら 語り  ふっ  と、消えた

其れ因りから田宮家は熱病で子を失い、
妻も死に、
伊右衛門も叉死ぬ不幸続き
此の噂話より出来た芝居が東海道四谷怪談

芝居が流行り 建てられたのが於岩稲荷神社であるそうだ、
四ッ谷 外の霊岸島に建てられたのは明治時代に芝居小屋等に近い場所だからそうだ、
初代市川左団次の屋敷跡に建てられたそうだ
中央区史跡指定の御百度石に初代市川左団次の名が有る




海運の金比羅神社と於岩稲荷神社が二つ並んでいる
どちらも大きな社ではない、
於岩さんは木々が古く苦練り 苔むし湿り気があり
善い感じだった、将門首塚も清々としている

そんなもんだ

見た

茅場町へ行き 偶さかに寄せる喫茶で一服し


帰る


霊岸島冨獄卅六景)




(茅場町で素敵な
茶屋見つけた)

「同心の地 水天宮、堀部安兵衛屋敷跡地辺」
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12220161901.html

「びくに橋八丁堀」
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12223213516.html

「佃島 住吉辺之事」
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12154496405.html

「芝界隈」其の一 芝大神宮之事
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12192996556.html?frm_id=v.jpameblo&device_id=079d8e4075d54a1091b57cfec81c5d51

「芝界隈」其の二   芝増上寺辺之事
「芝界隈」其の三   日本橋辺之事 尓続く

「愛宕山」洛中思案
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12021782508.html