【谷根千之町、墨引き散策】洛中思案過去blog | 徳川わ廣 のブログ

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御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

11/吉月吉日


こちらの住まい合羽橋は震災により、大正頃より碁盤の目の様な街並みになったそうだ。

浅草、上野、あきばっはらと縦横の道は行き安かろふ。

迷路町歩き好きにはには面白くは無いかな。合羽橋は天海の清水寺の通り、家の普請に足場かけたりしてたのは、新門辰五郎を組だね、何でまた、こんな処に住んだかね、その前の麻布も櫻田門も近くあり、先祖縁者の地関わりが温といたね。

今は浅草橋場に住み、近く石浜神社を散歩がてらに  見分すれば、神社縁起に酒井屋敷跡地があり、叉だよ、先祖だ。

これ屋敷跡をば見て志を外すと今でも悲しまれるねひ。いざの時におっとり刀で進める様にお歴々に申し奉るだな。

遊びに行きませんか、与力の誘いに谷根千へ行きました。合羽橋住まいの時は上野山にぶつかり越えぬと行きずらい在所だった。与力に案内されるまで行ったことが無かった。

御殿坂を上り 御山から夕焼け段々を下りるやり方を覚えた。与力は名物の生ハムがを目当てだそうです。

メンチカツ眺めて酒屋見てな、焼き鳥かぢつて観光。小間物いじりして町のどん詰まりで錆びた一間  間口の「初音蕎麦」を見付けた。




どうぢゃ共に立ち食い蕎麦中食すべひと、問へば。与力は  付くな付くな録では無しの代物かもしれませぬぞ、等と渋ひ事云う。

その日は寄せず帰ったが、それから、偶さかの散歩がてらの時に馴染みにした。

鶯谷は正岡子規庵を突っ切り、覚えた日暮里の坂越えて、小ぶりな丼鉢の蕎麦をば喫スまずは  かけ、続いて五色揚げの天婦羅蕎麦が進めば定番に為った。

こゝの、玄関先にちょひ洗いの手水場が素敵だ。昔の寿司屋にはよく有って、食ったあとに指先だけ、ちょひとするやつ、「初音蕎麦」は町歩きの雑誌にも乗ったのだろふ、主の写ったポスターが飾ってある。ポスターには主ともう一人写っているが、今はいないね、多分  どこかえ遊びに逝ったと思ふ。


蕎麦を喫しにのれんをくぐり、さて本日しばしの暇な時の間合いを、どうするかやと 散策しながら、ゆるりとする思案の場所にしていた。馴染みにしてしばらくたち、暇な時に行くが見世が開いて無く、

それっきしとなった、覚えられ笑いながら迎えてくれた初音蕎麦の主はもうしとりの主殿と同じくどっか遊びに逝ったのだろふ。


そんだけの話し。


(14 /12  今日びは見世も遊びに逝った)


「山岡鉄舟菩提寺の桃」

(14s 師走)