【 芝増上寺 】洛中思案 、「蕎麦」真面目に夕膳 | 徳川わ廣 のブログ

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御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

(15s/水無月八日)

(芝増上寺 洛中思案過去blog因り11s吉日)

吉宗、田安だの直はお山におり 木挽町辺り迄は進むのだが
芝方面は銀座の先で、馴染みもなくて進まなかった。
芝は増上寺が有り、七代家継公方まで続く祖の二代大君徳川秀忠公方様が祀られ
叉徳川家康の側にあった黒阿弥陀が置いてあり興味は有る
歴代の御位牌も安直されてもいるので、進む事とした。

増上寺正面門は第二次大戦でも焼け残った物だそうだ。

でかいね、東海道をば旅するものは先の芝東照宮から此の大門を見る

元来より下馬しないので大門くぐれないので熊の権現社の有る横手から進む。

そこにかの黒阿弥陀の置いてある堂前に行く。


札受け処の護り袋は葵の紋、受け処の坊さんに
かの仏壇の仏は神君徳川家康と共に乱世を駆け抜けた黒阿弥陀かやと問へば、

そいつはお門違ひだ、今は秘仏になりました。あいつの奥にゐると言ふ。


ならば お歴々の御位牌があり お歴々の身の丈の大きさに造られていおると、何かで聞きいたがあれらかと叉言問へば、

空襲で焼けちまって今はあれしかない、

勝手に上がって見やがれ  と言ふので上がってみる
正面に徳川家康の御身影があった、近づいて見る前に二代大君秀忠公方様の絵かなと思ったが違ったねひ。
位牌もこちらの勘違いで身の丈と思われるものは無かった
吉宗等は見てみたいものだねひ、六尺有って、猪狩りで、飛び出した猪を殴り殺したとの逸話が有るからねひ
残念でした。
武家処法度を発布した金地院崇伝(すうでん)の寺も有るが回ら無かった、
比叡天海の合羽橋清水寺通りに戻るべぇ


見た、帰る




後に「日本史跡研究会」の街歩きに参加し
た時に、芝増上寺に安置さるる、徳川御歴々の御廟を見学する事と為った

こちら命しとつで家康の元で勝負した緒士や、
今もつながる人々の御為にも
後生を憂いて頼むは良くない
綺羅を誉めて、供養はおのれ等の一生の反古である
叉棟梁としては頼りないとの考えている

なので  御廟に行くことは無いと思っていたが、機会が出来 御成をばした

徳川秀忠公方廟に一礼後、見て歩き 九代徳川家重公方様の辺りから 考え込みむ、

跡目争い、確執により害されはしなかったが、生涯其より後に先祖田安宗武は御上に会えなくなった、

此の方七代家継公方様までだな御直系は  等の云々を各御廟の前で色々思ったねひ


まあそう言う事、

帰りに、増上寺執事 青木氏と対面



(二代日本国大君 徳川秀忠 御廟)




戦国期に金沢から後の大阪までにアミダ教徒ベルトが有り、その中に食い込んだ勢力が本願寺、
その影に隠れているが、法然の浄土宗も交じってゐる、
他の阿弥陀教団、徒を悪とし
どちらも徳川家康に付き生き残る、

京二条城と共に知恩院は徳川武家詰所の御役が有る

本願寺、浄土宗は他山も大なり小なり行うが、
特に本願寺は無戒律で本願寺に引き付け、制圧する為に 没してからでは無く
今の門主が神仏であると言う「あら人神」性使いだした、
それに気付き、宗門外でその神聖性を使いだしたのがアミダベルトにいどんだのが
君主 織田信長公、
その後は大日本帝国まで続く


御公儀を、連なるものを、概念にはさせない、

御上




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「 蕎麦 」真面目に夕膳

信州蕎麦  味わうつもりでしたが勢いがついてスルスルッと勢いで食べてしまった
信州蕎麦
五色揚げ
瓜酢の物

そー言えば、お狸様、天婦羅天敵かな?




ほとんど噛んでない



神君 徳川家康没四百年 2015年