今日は新世界の話です。
新世界と言っても大阪の街ではなく、
ドボルザークの交響曲第9番新世界です。
実は、昨日、コンサートにいって
新世界を聴いてきましたので、
その話を書きます。
◆勝之進が初めて新世界を聴いたのは、
小学校6年生のことでした。
クラスにいたオガワ君は、音楽好きな子供で
ドボルザークの交響曲9番・第四楽章が
好きだと言って、女子にモテていました。
勝之進は、一体どんな曲なのかと思って、
レコードを買ってもらって聞いたのが
最初でした。
第四楽章は、ゴジラが登場しそうな
ザーザ、ザーザと始まるイントロに
パーン・パンパン・パーパパンと
響く管楽器を聴いて、
なんてカッコいい曲だろう
と思ったのを覚えています。
それから48年、レコードやCDでは
何百回も聞いてきた新世界を、
新世界と言っても大阪の街ではなく、
ドボルザークの交響曲第9番新世界です。
実は、昨日、コンサートにいって
新世界を聴いてきましたので、
その話を書きます。
◆勝之進が初めて新世界を聴いたのは、
小学校6年生のことでした。
クラスにいたオガワ君は、音楽好きな子供で
ドボルザークの交響曲9番・第四楽章が
好きだと言って、女子にモテていました。
勝之進は、一体どんな曲なのかと思って、
レコードを買ってもらって聞いたのが
最初でした。
第四楽章は、ゴジラが登場しそうな
ザーザ、ザーザと始まるイントロに
パーン・パンパン・パーパパンと
響く管楽器を聴いて、
なんてカッコいい曲だろう
と思ったのを覚えています。
それから48年、レコードやCDでは
何百回も聞いてきた新世界を、
初めてナマ演奏を聞いたわけで、
なんだかとても感慨深かったです。
◆それではまず、ドヴォルザークについて
簡単におさらいしておきましょう。
本名はアントニン・ドヴォルザークといい、
つづりは「DVORAK」と書きます。
(Rの上には∨、Aの上には「´」がつきます)
ドボルザークは、1841年に
チェコのプラハ近郊で生まれました。
1841年当時のプラハは、
民族運動が活発になっていたのですが、
国としてはオーストリアであり、
◆それではまず、ドヴォルザークについて
簡単におさらいしておきましょう。
本名はアントニン・ドヴォルザークといい、
つづりは「DVORAK」と書きます。
(Rの上には∨、Aの上には「´」がつきます)
ドボルザークは、1841年に
チェコのプラハ近郊で生まれました。
1841年当時のプラハは、
民族運動が活発になっていたのですが、
国としてはオーストリアであり、
1848年のプラハ市民蜂起の失敗を経て、
1867年には、フランツ・ヨーゼフ2世と
エリザベート皇后による
オーストリア=ハンガリー帝国が
建国された時代でした。
ドヴォルザークは1904年に
亡くなっていますので、
第一次世界大戦後の1918年の
チェコスロバキア共和国を建国
を見ることはできませんでした。
そのチェコスロバキアも、現在は、
チェコとスロバキアに
第一次世界大戦後の1918年の
チェコスロバキア共和国を建国
を見ることはできませんでした。
そのチェコスロバキアも、現在は、
チェコとスロバキアに
別れてしまっています。
このように、チェコとプラハは、
このように、チェコとプラハは、
ヨーロッパのど真ん中にあるがゆえに、
永い間、領土争いに翻弄されてきたのです。
◆ドボルザークの実家は、
◆ドボルザークの実家は、
肉屋と宿屋を営んでおり、
アントニンは、何度も何度も
アントニンは、何度も何度も
肉屋を継ぐように促されます。
しかし、楽才に恵まれたアントニンは
音楽の勉強を続け、ヴァイオリンと
ビオラ奏者として楽団に参加し、
スメタナにも師事します。
24歳ごろから作曲を始め、
30歳ごろには楽団をやめ、
本格的に作曲家の道を目指しました。
1877年、36歳の時、
ブラームスがドヴォルザークの作品を
しかし、楽才に恵まれたアントニンは
音楽の勉強を続け、ヴァイオリンと
ビオラ奏者として楽団に参加し、
スメタナにも師事します。
24歳ごろから作曲を始め、
30歳ごろには楽団をやめ、
本格的に作曲家の道を目指しました。
1877年、36歳の時、
ブラームスがドヴォルザークの作品を
高く評価したこともあって、
次第にメジャーな作曲家になっていきます。
1891年には、ドヴォルザークが
次第にメジャーな作曲家になっていきます。
1891年には、ドヴォルザークが
50歳の時、ニューヨークに来ないか
という誘いを受けます。
当時の年俸の25倍もの報酬を提示され、
アメリカへ渡る決意をしたドヴォルザークは
当時の年俸の25倍もの報酬を提示され、
アメリカへ渡る決意をしたドヴォルザークは
1892年に海を渡りました。
ドヴォルザークは、ニューヨークの
音楽院の学長をやりながら、
1893年5月に交響曲第9番
音楽院の学長をやりながら、
1893年5月に交響曲第9番
「新世界より」を完成させます。
原題の「From The New World」
原題の「From The New World」
から分かるとおり、本曲は「新世界」
ではなく「新世界より」です。
◆当時のアメリカは、
1849年以降のゴールドラッシュ、
1863年の奴隷解放宣言、
1865年の南北戦争終結により、
ようやく平和になった状態でした。
アメリカには、一攫千金を夢見る移民が
世界中から殺到しており、
まさに人種のるつぼのような
明るくも騒然とした時代でした。
そうした状況を目の当たりにした
ドボルザークは、驚きとともに
アメリカはこんな国だぞという
メッセージを曲に込めました。
ドラマティックで、新鮮さ、
1849年以降のゴールドラッシュ、
1863年の奴隷解放宣言、
1865年の南北戦争終結により、
ようやく平和になった状態でした。
アメリカには、一攫千金を夢見る移民が
世界中から殺到しており、
まさに人種のるつぼのような
明るくも騒然とした時代でした。
そうした状況を目の当たりにした
ドボルザークは、驚きとともに
アメリカはこんな国だぞという
メッセージを曲に込めました。
ドラマティックで、新鮮さ、
斬新さを感じさせる
切れのいいメロディの交響曲は
切れのいいメロディの交響曲は
ドヴォルザークの最高傑作となりました。
◆結局、ドヴォルザークは、
1895年4月にアメリカを離れますが、
終始、チェコに帰りたいという気持ちが強く、
第二楽章は、郷愁極まれり、
という曲になっています。
アメリカの広い大地に沈む夕日を
イメージさせる調べには
「ふるさとに帰りてぇなぁ」
第二楽章は、郷愁極まれり、
という曲になっています。
アメリカの広い大地に沈む夕日を
イメージさせる調べには
「ふるさとに帰りてぇなぁ」
というドヴォルザークの心情が
よくあらわれています。
◆帰国後も精力的に音楽活動を
行っていたドヴォルザークは、
1904年5月に脳出血で
よくあらわれています。
◆帰国後も精力的に音楽活動を
行っていたドヴォルザークは、
1904年5月に脳出血で
帰らぬ人となりました。
62歳の生涯でした。
--------
歌の滅茶苦茶うまい子供が、
周りから歌手になれるよと言われて
スターになるように、
ドボルザークは、周囲に評価されて
自らの才能を開花させました。
彼の人生を振り返ると、
ドヴォルザークは、
62歳の生涯でした。
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歌の滅茶苦茶うまい子供が、
周りから歌手になれるよと言われて
スターになるように、
ドボルザークは、周囲に評価されて
自らの才能を開花させました。
彼の人生を振り返ると、
ドヴォルザークは、
アメリカに渡ったことで、
自分がチェコ人であることにを再認識し、
チェコ国民楽派と呼ばれる通り、
祖国を想いながら曲を作った作曲家でした。
チェコ国民楽派と呼ばれる通り、
祖国を想いながら曲を作った作曲家でした。
◆コンサートを聴きながら、
ドヴォルザークがアメリカで感じた
驚きと望郷の気持ちに触れるとともに、
ドヴォルザークがアメリカで感じた
驚きと望郷の気持ちに触れるとともに、
アメリカンスピリッツを歌い上げた
第四楽章を聴くと、
自分も老成している場合ではないぞと
勇気づけられるのでした。
勇気づけられるのでした。
新世界だ!。。。勝之進