小倉 | 徳富 均のブログ

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 北九州市中部に位置する豊前国の城下町小倉は、筑前、筑後と長崎を結ぶ長崎街道の起点である。この小倉に大規模な居城を構え、町の発展の礎(いしずえ)を築いたのは、関ケ原の戦いで功を立てた丹後(京都府)宮津の城主、細川忠興であった。豊臣秀吉の没後、石田三成と対立、妻ガラシャを失うなど痛手を負った忠興だが、徳川家康は慶長5年(1600)、関ケ原での働きに報い、豊前一国と豊後の一部39万9000石を与えた。家康は、関ケ原の戦いで西軍総大将だった毛利輝元を、関門海峡を隔てた周防、長門両国に減封し、忠興をその目付け役にしたのである。

 忠興は中津城(大分県中津市)に入城したが、この城は規模が小さかったため、小倉城の建築に取り掛かった。それは四重から五重の堀で囲まれ、水門をも完備した、四十万石大名にふさわしい城であった。

 その後、寛永9年(1632)に熊本へ転封となった細川氏に代わって、家康の曾孫にあたる小笠原忠真(ただざね)が小倉に入城し、城下町をさらに発展させた。

 寛永12年(1635)に制度化された参勤交代により、小倉は九州諸大名はもとより幕府役人の往来も増え、紫川河口の大橋(常盤橋)付近に大名の定宿が用意されるなど、大いに賑わった。

 小倉城は、屋根には破風がない事から「唐造(からづくり)の天守」と呼ばれる。また、足立山から切り出した天然石で造られた、「野面(のづら)積みの石垣」も特徴の一つである。