飛梅(とびうめ) | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 今から1100年以上も前の延喜元年(901)、妻を京に残し幼子二人を連れて、右大臣菅原道真は大宰府に着いた。それは、左大臣藤原時平の讒言による、突然の左遷であった。

 実は、平安遷都後、政治の実権は藤原北家(ほっけ)に握られていたが、それを嫌った宇多天皇は、地方に転出させられていたかつての文章博士(もんじょうはかせ)である道真を重用。藤原氏の勢力を削ぐため、道真を機密文書を扱う蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢した。続く醍醐天皇も道真を右大臣に据え、左大臣に藤原時平を置いた。しかし、時平は、道真が醍醐天皇の弟の天皇擁立を画策していると中傷し、政敵を失脚させることに成功した。

 失意の道真がようやくたどり着いた大宰府は、荒れて久しかった。

 大宰府は、7世紀、天智天皇が設置した筑紫大宰を前身として発展した。律令制下、西海道(九州)諸国や島の総管府および対外交渉の門戸として、筑前国に置かれた。唐の都城を模して造られた大宰府は、地方官庁ではあったが、京から赴任した大宰帥(だざいのそち)以下の官人約600人が配され、その広さは東西約2㎞、南北3㎞で、平城京の三分の一ほどの面積であったとされる。しかし、弘仁年間(810~24)には、大宰帥が現地に赴任しない遥任(ようにん)となり、やがて国司の下級役人が管理するようになった。

 道真は、赴任から年後の延喜3年、荒れ果てた感謝で59年の生涯を終えた。 

「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

 いつの時代でも権力闘争は、「何でもあり」です。ですから、正直、誠実一辺倒では太刀打ちできません。そこで、軍師が必要なのでしょうが、そこまでやる必要がない、と考えるのが一般的でしょう。