春日大社 | 徳富 均のブログ

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 神山として狩猟、伐採が禁止され、今に至るまで原始林が保たれてきた春日の杜(もり)。その豊かな緑に包まれて、朱塗りも艶やかな社殿が立ち並ぶ。藤原氏の氏社として、1300年近く栄えてきた春日大社は、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した和銅3年(710)に、藤原不比等が常陸国(現・茨城県)鹿島神宮から春日山(御葢山・みかさやま)に、氏神を勧請したことに始まると伝えられる古社である。

 藤原氏は、大化改新で活躍し、臨終に当たって「藤原」の姓を賜った中臣鎌足を祖とする。中臣氏は、宮廷の祭祀を司っていた古代の有力豪族で、鎌足の子の不比等が隆盛の基礎を築いた。不比等は「大宝律令」の編纂を主導する一方で、二人の娘の内姉の宮子(きゅうし)を文武天皇夫人とし、宮子が生んだ首皇子(おびとのおうじ・のちの聖武天皇)には妹の光明子(後の光明皇后)を嫁がせることで、外戚の地位を固めた。そして自らが主唱した平城京遷都が実現すると、ただちに都を見渡せる一等地に氏寺の興福寺を建立。さらにその東に春日大社を創祀した。

 古来、神の鎮座する神南備(かんなび)であった春日山は、以降、藤原氏に崇められ、春日大社は平城京の鎮護神として朝廷の庇護を受ける。

 不比等は養老4年(720)に62歳で没したが、その4人の息子は藤原南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の祖となり、なかでも北家からは、平安時代に太政大臣藤原道長が輩出し、栄華を独占することになる。

 春日大社の主神とされる武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、常陸から白鹿に乗って上洛、春日山頂に天下(あまくだ)ったと伝えられる。

 春日山は、原始の姿を伝えるやまとしてユネスコ世界遺産に登録されている。