小山評定 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 小山城址は、小山駅の西約300mに位置し、思川(おもいがわ)左岸の台地一帯を指す。城は、保元・平治年間(1156~60)に小山政光が築いたといわれる。しかし、元和5年(1619)に、徳川家康の重臣、本多正純が宇都宮に転封して以降、小山城は廃城となったが、小山は下総結城、足利、栃木への各街道の追分として、交通の要衝であった。そして、この地は、天下分け目の「関ケ原」の作戦会議である「小山評定」の舞台でも有名である。

 会津の上杉景勝討伐の途上にあった家康は、小山で石田三成挙兵の報せを受けた。三成側の大名は30家。この時家康は、

「三成につくものは大坂に帰れ」

と、豊臣恩顧の大名84名に決断を迫った。それは、豊臣家ではなく、三成との戦であることを強調したのである。石田三成を豊臣家の代表にしない、この家康の深謀遠慮。さすがに「狸爺」の面目躍如というところでしょう。明治維新の「錦の御旗」のように、戦いでは、一般に正義がどちら側にあるか(これは嘘でもいいので)をはっきりさせることで戦う人たちの意識を高揚させることが出来るのではないでしょうか。軍備にさほど開きがなければ、勝負の決着は、戦う者の意識が大きく左右するでしょう。